Lambda

権利という言葉について

ベンジャミン・クリッツァー氏の「動物と人間のあいだ」という連載がある.

なかでも「第3回 「権利」という言葉から距離を置くべき理由」が興味深かったので,ここに要約しておきたいと思う.是非,原文もご覧になっていただきたい.

わたしたちは,社会問題や道徳が絡む問題を考えるときに「権利」や「人権」という言葉を用いることが多い.

世の中には,まさしく不正としか言いようがない状況があって,大量虐殺や犯罪行為などがそれにあたる.このとき,被害者の人権が侵害されていることを大半の人が認めるであろう.

一方で,誰かが「権利が侵害されている」と訴えてはいるが,それが不正であるかどうか直ちに判断できない,という状況も存在する.例えば,ある人が受動喫煙の被害にあわない権利を主張し,他方では,別の誰かがタバコを吸う権利を主張しているような場合などがそれにあたる.こうした問題は,権利と権利が対立する構造をなしているという特徴がある.ひとたび権利が対立すると,権利の観点から解決策を導くことは容易ではない.

こうした,対立を解決する発想の一つに,「最大多数の最大幸福」という基準で物事を判断する功利主義がある.功利主義は,幸福をどのように定量化するかという問題を有しており完全とは言えないが,双方にとって譲れない一線である「権利」の概念を妥協点をさぐる議論へと前進させられる点で,有益である.

筆者は,権利という言葉は,ごく限られた問題に対しては有効かもしれないが,広範な道徳的問題に適用できるものではないと考えている.

例えば大量虐殺や犯罪行為のように,大多数の人が好ましくないと感じることが明らかである問題には,被害者の権利,あるいは人権という言葉で論じるのが適当であろう.同じことを功利主義の立場から論じたら,相当に回りくどい言い回しになる.言い換えれば,解決積みの問題に対しては,権利という概念はわたしたちの道徳判断を的確に表現できる.

一方で,冒頭で述べた権利と権利の対立のように,いままさに生じている未解決の道徳的問題に対しては権利という言葉はもはや役に立たない.