Lambda

2021年の日記

12月31日の日記

今年もお付き合いいただいた皆様にお礼申し上げます。ありがとうございました。

私個人の生活としては、今年は仕事に大きな変化があったりしながらも、私生活は維持することができました。簡単な資格を取ったり、Arduinoで電子工作をしたり、よい1年でした。

12月6日の日記

制作の途中で意見をもらったりした人に「制作が終わる前にはもう一度見せに来ますね」という約束をすると、高確率で忘れるのでよろしくない。

「いつまでに」であればカレンダーに書いておけばよいし、「全部終わったら」であれば最悪忘れてても大して問題にならない。それに比べて「終わる前には」という約束は忘れがちだし、適切なリマインダの設定も難しい。

約束をする時点では終了条件が決まっていないことが問題の本質ように思えるけれど、その気づきはリマインドの役に立つだろうか。

12月5日の日記

数日前から、トップページの上部に「今日の一言」というコーナーを追加した。

一般的に、この種の「欄外のおまけ情報コーナー」を作りたくなるのは、ホームページ制作者にありがちな、好ましくない誘惑の一つだ。おまけは、ページを賑やかにはするが、情報価値は乏しく、管理を面倒にしがちなのだ。

だから、こうしたコーナーは安易に追加するものではない。けれども、半年ほど考えて、「今日の一言」は筆者が発信したいことの一部であって、単なるおまけではないと考え直した。そうして、今回、実装してみた次第。

ここには、筆者がこれまでに目にし、心に残った言葉を日替わりで表示する。面白かったジョークから、価値観を表した言葉まで雑多に詰め込んでいるが、どれも筆者にとって価値のある言葉だ。こうした言葉たちが、皆に届いてくれることを願っている。

ここに並ぶ言葉は筆者の人となりの断片であるから、あなたがここに興味深い言葉を見つけたのだとしたら、それは筆者にとっても幸運なことである。

11月26日の日記

「遺体ホテル」への反対運動 経営者が語った〝至極まっとうな反論〟 死体を歓迎しない「究極の自己否定」

臨終までは手を握って嗚咽していたのに、亡くなった途端、妙によそよそしくなることも多いという。

棺に入った祖父と向かい合ったときのことを思い出した。葬儀屋の人は、ぜひお顔に触れてあげてくださいと言うのだけれど、遺体に触れることにはいささかの抵抗があった。嫌ではない。ただ、自分の意志で動くことのない身体に触れようという愛着はわかなかった。

亡くなった人を生きている人のように扱うことは難しいと思う。もし本当にそれが大切な人そのものであれば、私はそれを焼くことには同意できないであろう。

とはいえ、死は身近なもので忌諱しすぎるべきではないという記事の論旨そのものにはおおむね同意したい。ある自分に親しい個人の死は非日常かもしれないけれど、社会という視座に立てば死は日常である。とすれば、積極的に関わりたに行くかはともかくとして、死者や死そのものに対して、反対したり怒ったりするのは筋の通らぬことであろう。

11月14日の日記

昨日依頼した車検は無事に終了。大きな不具合や、追加整備はなし。特に楽しいこともなく、事務的に終了した。

法律で定められた義務を果たすのだから事務的であって何の問題もないし、複雑な機械を運用するためには、パーツを1つ1つ点検していくことが重要なのだというのもわかったうえで、楽しくないというのが正直な感想である。

ところで、近頃の車は、ソフトウェアによる運転支援が乗り心地や安全性に大きく貢献している。そういうわけで、今回は、コンピュータ診断がどんな結果を出すのか楽しみに待っていたのだが、受け取ったのは「異常ありません」という紙1枚であった。

ログがいっぱい出てきたら楽しいなと、少しだけ期待していたのだ。それが期待のしすぎだとしても、人間の健康診断だって、計測値と基準値くらいは患者に知らされるものであろう。ログを回収して製品開発に使っていただくのは構わないから、オーナーにもその数値は見せてもらえないものだろうか。機械系の点検と同様に、つまらないからといって、やらなくてよいわけではないのは重々承知なのだけれども。

11月13日の日記

初めての車検に行ってきた。ディーラー氏があれこれとオプションの整備や長期保証を勧めてくるのを聞いて、気になった整備も注文。結構なお値段であった。

今回は注文しなかった整備も含めて、フルコースにした場合の内容と値段が判明したので、家に帰って反省会。1. やってもらうべきもの、2. 必要だが自分でやれば済むもの、3. 不具合や劣化を感じたら整備を依頼すればよいもの、4. 不要なもの、に切り分けて次に備えておく。

11月7日の日記

残業してほしくない - やしお より。

残業代は実体的には割増賃金になっていない。賞与を除外して考えると割増になっているが、含めて考えると残業をすればするほどレート(時給)が下がる。私自身の場合計算したら3分の2だった。仮にバイトで「ごめん仕事あるから残業してくれる? 時給は3割引きにするからさ」と言われたら「ふざけるな!」だけど、それが起きている。また全体で労務費が上がれば賞与で調整されることになるから、残業すればするほどタダ働きに寄せられていく。

本日の納得したこと。

10月3日の日記

本業の方が忙しく、私生活ではアウトプットが激減していた。最近は、ようやく週末の休みくらいは時間を取れるようになって、考え事をする余裕が出てきた状況である。とはいえ、まだ平日は私生活に充当できる余力が乏しく、全体として日常のあれこれが円滑に進むには至っていない。

物事を円滑に進めるための段取りが、滞ったままなのだ。例えば、誰かに贈りものをしなければならない場合には、実際にそれを買うのは週末であるとしても、大まかに何を買うかは平日のうちに考えておく必要があるだろう。それには、少々のネットサーフィンが必要かもしれないし、誰かに相談のメールをする必要があるかもしれない。段取りとはそういう行動であって、些細ではあるが、滞ると物事が進まない性質のものである。

今はまだ、平日に段取りをこなすリソースを捻出できず、ようやっと迎えた週末の多くは、翌週の段取りに充当されている。買い物に行く時間はあるが何を買うかは決まっていないというのは、言葉にすると大変に間抜けなことだけれど、当人にとっては真剣な悩みである。

9月13日の日記

許しがたいことを思い出したので,あまり行儀はよくないが書き留めておく.

あなたのしでかしたことで他所に迷惑がかかり,仲間が後始末に謝罪に駆け回っているというのに,そんなつもりじゃなかっただの,仕方なかっただの内向きに言い訳するばかりの様は見過ごすことはできない.自らの行いは味方の対外的な立場を傷つけるものだと認識できず,自らの責任についていつまでも内向きにしか口を開かないのであれば,それは半人前のすることであろう.

8月26日の日記

4月に異動を命じられてから,はや半年.新職場での仕事はきついながらも充実したもので,良い半年であったと思う.

けれど,職場を移った今でも旧上司からの仕事が降ってくることが稀にあって,そんな仕事の時だけはパフォーマンスががくっと落ちる.それは自分もびっくりするほどに.

パフォーマンスが落ちる要因は,体感的には「旧上司の指示であるから」が8割,「旧職場の業務内容であるから」が2割といったところ.つまり旧上司と決定的に馬が合わぬ.実際のところ,自分がこんなにも旧上司の影響を受けているとは思ってもいなかった.ここ半年ほどで,新職場の仕事にあたるときの身軽さと,時々降ってくる旧職場の仕事にあたるときの鈍重さを交互に経験し,心の傷の深さにようやっと気づいた次第.

今にして思えば,旧上司との間には,あの時すぐに会社に申し出ていればパワハラ案件だったと思えるようなエピソードもあって,異動という形で旧上司との公式な関係性が切れた後でそれに気づくのはなんとも皮肉.今更言い出そうにも,時々嫌な思いをしますでは定量的な不利益さが足りぬしな.

8月15日の日記

Arduinoで温湿度ロガーを作った.実は,Arduino本体を買ったのは1年以上前であって,最近まで手が止まっていた.一つ一つの手順は簡単であっても,それらを組み合わせて新しい概念を学ぶのは簡単ではない.今回は,そのハードルをやっとのことで乗り越えた.

主なハードルは,確信の持てないことを試しながら学ぶプロセスだった.Arduinoは入門書や初心者向けのチュートリアルがよく整備されているものの,実際に学んでいくと,早い段階で失敗の可能性がある領域に踏み込まねばならない.教科書に紹介されているのと全く同じパーツは簡単には手に入らず,Webで公開されている記事には少なくない誤りがあった.

こうした環境で学習を進めるにあたっては,確信の持てないことを計画し,実行する作法が重要であったと思う.例えば,最終的には使わない可能性があっても,いま試す価値があるものは買い,実際に試してみたことがこの学習を進めるうえでは大きな力になった.

そんなわけで,ここには,学習を進めるための作法ついて気づいたことをメモしておきたい.

  • 最終的には使わない可能性があっても,いま試す価値があると感じたものは買ってよい.
  • 教科書を必要なページだけ読もうとしてはいけない.よくできた本であるほど,前から読むのが一番早い.
  • 動くプロトタイプを作ったら,それを調整して遊んでみるとよい.
  • プロトタイプを見て,満足感に浸りながらコーヒーを飲む時間は,学習時間に含まれる.

Arduinoについて具体的に習得したことも大きな成果ではあったけれど,その話はまた今度.最終的には室内環境を常時モニタリングするシステムを組みたいと思っている.

7月5日の日記

列車に乗って東京都心を通過すると,スマホが発熱して急にバッテリーが減るのだけれど何故だろう.

郊外の自宅では症状が出ないことや,都内でも同じ場所に留まっていれば症状が出にくいこと.また,移動中にはスマホを使用しなくても熱を持つことから,「都内を移動する」というのが原因の1つである可能性が高い.

症状が出ているときに,Simple System Monitorを見ると,ストレージのI/Oが飽和しているようだ.かなり古い機種(Nexus 5)なので,I/Oがボトルネックになることは十分に考えられるし,I/Oの使用率が100%に張り付けば発熱するのも理解できよう.

問題は,このストレージI/Oは一体どこから来たのか?である.移動するだけで,帯域を食い尽くすほどのI/Oを発生させる原因は,ちょっと思いつかない.実際にディスクにアクセスしているプロセスを特定できれば良いのだが,Androidでストレージへのアクセスをプロセスごとに取得する方法は,簡単ではないようである.(例えばApp to monitor Disk I/O - XDA Developers Forums

都心部の移動によって問題が生じるとすれば,セル間の移動による基地局のつなぎ替えが原因の可能性として浮かんでくる.しかし,いくらつなぎ替えが頻発するといっても,それがストレージの帯域を食いつぶしたりするものだろうか.モバイル通信技術には疎いのだけれど,モバイル通信のコア技術とも言える基地局の切り替えが,スマートフォンの能力を食いつぶすというのは直感的には考えにくいように思うのだ.

7月4日の日記

Civilizationなどのゲームをしていると,目の前に現れた数値を要素に分解して理解するという作法は,意識的に取り組まないと身につかないことだと感じる.

自分のユニットの戦闘力が30で,敵のユニットの戦闘力が27だと理解することは,特に難しくない.一方で,それがどんな基礎戦闘力と,補正によって生じたのかを理解することは,意識して考えない限り容易ではない.

そして,それは単なるゲームのプレイスタイルにとどまらず,より一般に,私が数値を構成している要素に意識を向ける習慣を持っているかどうかと関係しているように思う.

7月3日の日記

クリエイティブな作業がさっぱり進まない,という悩みがある.

目の前に取り組むべき(特に締切のある)課題があるときは,いつもグダグダだ.お昼を食べて一休みした頃から,取り組まねばならぬ作業が頭にちらついて,なんとなく机に向かっていた.ツイッターを見たり,電話がかかってきたりして作業は進まなかったのだが,気が付いてみると辺りは日が暮れており,作業も少しは進んでいる.そういえば,最後にコーヒーを淹れに行ってからは集中できていたような.あらゆる作業がこんな調子で,かろうじて進んでいく.

これは,どうすれば短時間で集中できるかという問題ではなく,クリエイティブな作業だとわかった時点で最低でも半日確保するべき,といった種類の問題なのであろう.そうは思いつつも,現状のおぼろけな理解では,それを具体的な行動につなげるのも難しい.前向きに作業にあたるためには,漠然と時間が必要という以上の仮説や課題を特定して,ライフハックに昇華する必要があるように思う.

6月29日の日記

子供の算数のテストで,掛け算の順序を直されたことに,親御さんがお怒りになるという場面をしばしば見る.これは,例えば「まんじゅうが3つあって,1個の重さは12 gです.まんじゅうは全部で何gあるでしょう?」といった問いについて「3×12」は不正解,「12×3」が正解.などというものだ.

確かに,数学的に等価な式の片方だけが不正解であることには,違和感を感じるであろう.しかし,学校教育の事情を察すると,教育現場のローカルルールとして掛け算の順序の概念を導入するのも合理的な選択に思える.今日はそんな話をする.

学校教育では,問題文の意味を理解できない子が少なからず存在している.けれども彼らは問題が解ける.いわゆるキーワードの拾い読みという方法で,問題文に出てくる数字を適当に掛けたり割ったりするのである.そんな馬鹿なと思うかもしれないが,自分はいま掛け算の問題を解いている,などのメタ情報があれば案外解けてしまうものである.

さて,ここからは私の推察である.学校の授業において,問題文の意味を理解して回答することを促すために「物が複数個あるとき,その合計は1個あたりの量×個数で表す」などと教えることは十分にあると思う(意図はともかく,私もそう教わった).そうした文脈において,「12×3」と「3×12」の意味は明らかに異なっており,3グラムのまんじゅうが12個あると立式するのは正しくない.

掛け算の順序なる概念を不意打ちで出してくるのは不正義かもしれない.しかし,教育の過程で用いるローカルルールとして「1個当たりの量×個数」と書かないと点数は付けぬと指導することは十分に合理的であろう.

もちろん,個別の事案について適切にローカルルールの指導があったかは明らかでないから,争いにおいて,必ずどちらかの肩を持つべきとは思わない.しかし,教師がテストの採点において,掛け算の順序を明示的に区別しているとすれば,そう教えたい意図があると推察することはできよう.従って,「そこでバツをもらうのは,ご子息が問題文の意味を理解できていないか,先生の話を聞いていないからではありませんか?」というのがTwitterで吹きあがっているのを見たときの,私の感想である.

6月28日の日記

何でも皆で集まって決めないと気がすまない方がいる.彼らは,任せるから決めてくれと頼むと「私だけにやらせるな」と不満を露わにする一方で,こちらで判断して決定だけを伝えるようにすると,問題が起こったときに「私が決めたことではない」と決定を非難する側に立つ.

彼らのふるまいを見ると,問題が起きたときに責任のなすりつけ合いが始まる文化的背景こそが,皆で決める主な動機になっていると感じられる.すなわち,誰かに決定を一任することが,その決定にチームとして合意することを意味するという前提が共有されていないのが問題なのだ.決定について知ってはいたが,私に責任は無いという言い分が通るような社会では,皆が平等に責任を負うための儀式として話し合いは常に必要になる.

誰かに決定を委任するという選択を避け,どんな時も皆で決めることを尊ぶのは,そうしないと後で自分が不利になるという不信に基づいた行動である可能性がある.

6月27日の日記

デバイスドライバの更新を行うべきか否か.現状は問題なく動作しているとして,次のようにしたい.

  • バグフィックスがある. → 適用する.
  • セキュリティに関わる修正がある. → 適用する.
  • パフォーマンスに関わる修正がある. → できれば適用する.
  • 自分が使っている型式とは関係がない修正. → 適用しない.

バージョン番号だけでは判断できないし,ドライバごとにリリースノートを読むのは骨が折れる.

6月26日の日記

最近,土曜日になると,日中のだるさと眠気に勝てない.

寝ている分には心地よいから大きな困りごとはないのだけれど,土曜をこういう風に過ごしたいわけではない.

6月25日の日記

あなたにアドバイスをくれる人が「なんか違うな,普通はこうじゃないか?」と言うとき,その言葉の意味は2パターン考えられる.1つは「それは,辻褄が合わない」という指摘.もう1つは,「それは,私のイメージしたものと違う」という要求である.

何が違うのか問うたときに,具体的な不具合が示されるのが前者であり,本当はどちらでも良いのだと示されるのが後者である.

実のところ,「なんか違うな」と言う時点では,アドバイザーはそれが指摘であるのか,要求であるのかを意識する必要がない.それがどちらの意味であれ「私の直感に反する」という意味に違いはないのである.

違っているのは,アドバイザーの直感が実際の問題と関連しているかどうかである.問題と関連のないことを言うアドバイザーは,しばしば「君がそうしたいのなら,それでもいいけれど」などと言って,発言を有耶無耶にするものである.

6月23日の日記

論理の話.「人ならば死ぬ(p → q)」が「それが人であってかつ死なないものであるという場合はない(not (p and not q))」と同値だというのはわかるのだけれど,これにド・モルガン法則を適用すると(not p or q)とも書けるというのは,少し意外であった.

「それは人でないかまたは死ぬものである(not p or q)」確かにそうだな.

6月22日の日記

昨日の話の続き.あれは,相手を脅迫したり侮辱したりするのは明確な意思を持ってやることで,言ってしまったで済まされることじゃないでしょう?という話なのだけれど,そうは考えてくれない人は少なくない.

「相手を殴りたくなるような状況でも手を上げたらそれについてはあなたが悪いよ」という話は理解できても,「追い詰められたからといって脅迫や侮辱はいかんよ」と言う話にはそう言いたくなる事情があるといって聞かない.感情が高ぶると暴力を振るってしまうのと同じくらい,脅迫や侮辱が口から出てしまうことも本人にとって抗い難い衝動であるのは理解できる.理解できるが,悪くないわけではない.

6月21日の日記

嫌なことを思い出した.ある人から誠意を見せろ,さもなくば…という脅迫を受けたうえ,後には「お前の態度が気に入らなかった.私の純粋な気持ちの表明に恥じるべき点も謝るべき点もない」と言い切られたというもの.

気持ちを表明するのに人を脅す必要はないし,純粋な気持で人を脅迫できるご自身の凶暴さは恥じた方がよい.といった話は相手に響かない感じなのが未だに納得がいかない点.

6月16日の日記

行動を決める際に自らの過去の行動に対する補償を導入する考え方がある.「昨日は食事を控えめにしたから,今日はお菓子を増やしても大丈夫」という具合に,過去の行動を考慮して,今日の行動の影響を測る考え方のことだ.

この考え方はそもそも正しい.純粋なカロリーの積み上げに関して,過去の収支を考慮することは理にかなっている.一般に,対象が可算である場合には,この理屈は有効といえる.一方で,対象が不可算である場合には,この理屈は有効ではない.昨日,病院に行ったことが,今日,自動車税を納めなくてよい理由にはならないのである.

ところで,今日は「私はいつも利口にしているから,今日はわがままを言ってもよいだろう」という弁を聞くことがあって,これについて考えてしまった.恩と迷惑は可算だろうか?私にとって,これらは不可算だ.迷惑は恩で補償できるものではない.

「利口とわがまま」は自分への言い訳にはなるかもしれないが,理由にはならない.私は,恩と迷惑を数え上げるというやり方は,徳を積むという言葉に表されるような,善行を可算的に扱う方便の誤った適用ではないかと思う.

(人は節度を守ってわがままを言って良いし,それには何の下準備も補償も必要ないというのが私の考えである)

6月1日の日記

私は人と話していて,しばしばフレーム問題に悩まされるのだけれど,人によっては私の状況をご理解いただけない場合もある.

例えば,私は「今日,暇?」という友人の問いかけがとても苦手だ.どう苦手なのかというと,まず,今日が具体的にいつを指しているのかわからないし,さらに,暇とはどういう状態なのかもわからないのである.今日は学校で授業を受けていて,その間は暇ではない.おそらく彼は放課後の話をしているのだとしても,放課後とて家に帰ってゲームがしたい.あれやこれやと考えた結果,今日が暇かどうか私にはわからないのである.

人はそういう状況を見ては「深く考えることではない」と言うのだけれど,深く考えるかどうかは程度の問題であってフレーム問題は誰にでも起こり得る.

別の例を示そう.研究発表の場でどこかの教授があなたの発表に対して「専門ではないのでよくわかりませんが,その前提を裏付けるデータはあるのでしょうか?」などと質問したとする.今度は,あなたもフレーム問題にはまって直ちに停止してしまうだろう.あなたはそんなデータは知らないが,既往研究で既にそういうデータがあっただろうか?あなたが不勉強なだけで,それは教科書的な事実なのかもしれない.意地の悪い教授ではないからこれは何かの助け舟とも考えられる…と考えが駆け巡って結局何も答えられなかったという経験をお持ちの方は少なくないと思う.

フレーム問題が発生して,質問に答えられないというのは,回答について詳細に考えているということだ.したがって,その解決策は,質問の意図について詳細に検討しないことである.「今日,暇?」という質問ならば,「今日の放課後に話をする時間があるか」という状況くらいを想定してはいとか,いいえとか言えばよい.今日とはいつのことであるか詳細に検討する必要はないといえる.

それでも,最終的には程度の問題である.前提が曖昧であるほど,結果が重大であるほど割り切った回答は難しい.卒業研究発表の場で,明快に「私は存じ上げません」と答えることは難しい.それは,その回答が重要であると考えるが故のことだ.私があなたの質問に答えないのも,その質問に対して,いいかげんな想定に基づいた回答をすべきでないと考えるが故である.どうかわかってくれ.

5月31日の日記

誰かの話について結論に異論はないが,判断材料や論理には同意しかねるという場合にどんな態度を取るべきかは悩ましい.自分との関わりが薄い事であれば聞き流してよいのだが,自分と関わりの深い事であればそうもいくまい.

そのまま行動に移して思った通りの成果が出れば誰も困らない.しかし,ひとたび状況が変わったり,手順を変えたりすれば,誤った判断材料や論理では正しい結論に戻れないおそれがある.物事が上手くいかないことが判ってから「いやいや君の考え方は違う」と後知恵でものを言っても平和な解決は望めないだろう.

最初に話を聞いた時点で納得できない点を指摘しておくべきなのだ.そうはいうものの,今日は担当者がようやっとやる気になった案件だったので,その気持ちに水を差したくない気持ちが勝ってにっこり笑って承認した.後でトラブったときに私が怒られたりするのだろうなぁと思ったり.

5月30日の日記

昨日からメンタルの調子がとても悪くて,対人関係の嬉しくないできごとを思い出す.

世の中には正当な範囲の要求であれば聞き入れてもらえるという場面が多くあって,そうした要求を上手に用いることは社会生活を営む上で重要である.私の出会った人のなかには,そうした要求を伝えることを苦手とする人たちがいた.彼らはしばしば,感情論や極論に基づいた要求を行い,それを却下された.

ある人は正規の手続きで利用を申し込む際の「申請理由」を書くことができず,「私にも権利があるはずだ.私が使えないのは不公平だ」と不満を述べた.ある人は,共同作業の成果について「私も一定の取り分が欲しい」と交渉を切り出せず,突然「私に権利がある,これは私のものだ」と主張した.

感情論や極論に基づいた,正当な範囲を超える要求は,当然に却下されるべきである.しかしながら,一定の権利を有するはずの彼らが何も得られない状況を放置することは,少なからず不正義であるようにも思われた.

私たちの社会は,互いの要求に耳を傾けて譲り合える程度に公平であるが,個人が正しく要求を行うことを暗黙の前提とする程度には不公平である.そして,要求を行う技術は個人によって巧拙があり,それが苦手な者が得るものは少ない.

特に問題なのは,そうした要求の巧拙という問題が,主観的にはしばしば「不公平な扱い」と認知される点である.彼の申請書は受理されるのに,私の申請書は却下される.私は担当者に嫌われているのだろう.あるいは,彼は分け前をもらっているのに,私はそれに与れない.仲の良い者だけで分け前を独占しているのだろうといった形で,不公平感を抱く場面はしばしば見られる.

自らが不公平に扱われているとする考え方は人間にとって自然で直感的であって,これを要求の巧拙の問題であるとする考え方は経験と学習によって獲得されるものである.そのため,第三者から見れば,扱いは十分に公平で,要求が聞き入れられるかどうかは殆ど純粋に要求の巧拙という技術の問題であるという場面でさえ,要求を聞き入れてもらえなかった個人の主観からはその技術的な問題はしばしば見落とされる.

私は,要求を相手に伝えることが苦手であるがゆえに得るものが少ない,という状態は正義に照らして適切ではないと思う.ましてや,当人がそれを解決困難な不公平であると認知しているのならなおさらだ.個人がその訓練の機会をどれだけ得られるかや,訓練によってどれだけの技能を習得できるかは環境に大きく依存しており,その巧拙をその場限りの個人の責任と言い切ることはできないだろう.

5月29日の日記

罪はないが責任はあるという状態を理解できていない人とお話をして,くたびれるやりとりであった.主にお仕事とかで.

彼に罪はない,すなわち彼は正義に関して非難を受ける必要はない.しかし,彼には責任がある,すなわち彼は起こしてしまった事態の後始末をしなければならない.そのことがご本人には理解されておらず,なんだかんだ回りが段どって事態を収拾することとなった.

「罪はない」という認識に固執して責任まで有耶無耶にする態度は,短期的な得(責任の回避)をもたらせども,長期的な損(信用の失墜)につながる.こういった態度によって明示的な罰を受けることはない(罪はないので)だけに,自身の態度に無自覚であれば,人付き合いが難しかろうなぁと思った次第.

5月19日の日記

Androidのスマホを使っていると,時々,ストレージI/Oの利用率が100%に張り付いたままになるので,原因を特定したい.しかし,ざっと見たところアプリ単位またはプロセス単位でストレージへのI/Oを監視するのは簡単ではなさそうだ.

探してみると,以下ような未解決スレッドがいくつか見つかる.

こちらの記事には解決策らしきものが示されているが,実行するにはroot権限が要るようだ.

5月6日の日記

イラストコミュニケーションサービスのPixivには,イラストにいいね!を付ける機能がある.閲覧者がイラストにいいね!を付けると,作者に通知が届くという仕組みで,閲覧者の「このイラストを気に入りました」という気持ちを作者に届けることができる.作者にとっても,イラストが誰かの心に届いたことを知るのは嬉しいものだ.

そんなわけで,私も時々いいね!を付けていたのだけれど,途中でPixivのある仕様に気が付いた.いいね!をつけると,関連するイラストがレコメンドで出やすくなるのだ.おそらくは,いいね!されたイラストと同じテーマのイラストや,評価が近いイラストをレコメンドするようになっているのだろう.

これが大変に便利だった.イラストを検索するというのは,かなり骨の折れる作業なのだけれど,レコメンド機能を活用すれば自分の好みのイラストを簡単に見つけることができた.

まず,偶然見つけたイラストにいいね!を付ける.すると,Pixivから関連するイラストがレコメンドされるが,この時点では私の趣味に合わないイラストも混じっている.ここで,レコメンドを無視せず「提示された中ではこれが好き」というイラストにいいね!を付ける操作を繰り返していくと,次第に私の好みのイラストがレコメンドされる確率が上がっていくのである.こうして鍛えたレコメンドAIは優秀で,人力でキーワード検索をするよりもはるかに効率が良くイラストを見つけ出してくれるのだ.

これは便利とレコメンドAIにどっぷりと浸かったところで,ふと振り返る.私はいま何に向かっていいね!しただろうか?私がそのいいね!に込めたメッセージは作者よりも,むしろレコメンドAIに向けられてはいなかったか?そんな気づきに,少なくない味悪さを感じるのであった.

5月3日の日記

いま使っているスマホのNexus 5.途中,休眠期間を挟みつつ6年ほど使っているのだけれど,一向に買い替えの必要が生じず,長い付き合いになっている.

ここ半年ほどは,画面の切り替えなどがやたらと遅く,買い替えの機運もあったのだけれど,原因を調べたところストレージのI/Oで詰まっているだけであった.ストレージの使用率が90%に達して,一時ファイルの読み書きで難儀していた模様.中身の棚卸しをして使用率を50%まで減らしたところ,もとのサクサク環境に戻ってしまい,引退がまた遠のいた.

ゲームをするにはさすがに力不足なのだが,今のところその必要もなさそう.

4月11日の日記

唐突に,Portal 2というゲームに出てくるマッドサイエンティストを思い出した.

彼はあるとき,当初の計画は実現が難しいので計画を変更しよう,という助手の提案に対して「何を言い出すんだ.冗談じゃない!私には無理だとでも言いたいのか?与えられたレモンでレモネードを作れば良いだって!?そんなつまらないことを誰がやる?今に見ていろ,そのレモンを発火性のレモンに改造して,お前の家の庭に放り込んでやる!!」と怒鳴り散らすのだけれど,怒り方まで明後日の方向を向いた憎めないキャラクターが大変良かった.

2月20日の日記

インデックスファンドにも「弱点」がある,を読んだ.

要約をすると,株価指数の算出にはコストが殆どかからないのに対して,株価指数に追従するように資産を保有するにはコストがかかる.本記事では,そこに含まれる「投資家にとって不必要なコスト」について論じている.

最近,山崎氏の記事をよく読んでいる.今日も気になった記事をメモ.

2月18日の日記

言葉の使い方がおかしいと,言いたいことは伝わるのに,説得力がまるでない文章ができあがる.そういった文章を書いてしまうのが怖いと感じるのも,ひとつの進歩であろうか.

2月12日の日記

武蔵野線.

ここは条件を整えればもう少し良い写真が撮れる気がする.

2月11日の日記

自分に何らかの落ち度があるときに,相手にも別の落ち度があることを示すと,落ち度が相殺して消滅するという論理モデルを採用している人がそれなりの数いるということを最近意識するようになった.

言い争いになったときに,指摘された論点に反論せずに,相手方に全く別の落ち度を見出す論法は,単に自分の落ち度を煙に巻くためにやっているのだと思っていた.正しくは,落ち度を相殺するつもりでやってるのだなと.

2月10日の日記

唐突に基本情報処理技術者になりたくなって,過去問をお勉強.パソコンを自作したり家庭内のネットワークを管理していればだいたいのことは分かるのだが,データベースだけは完全に素人なのでSQL文が分からぬ.

2月8日の日記

仕事ができる同僚の考え方に,ひとつの特徴を見つけた.どうやら彼の中では,論理の並列関係を見つけると,順序が適切かチェックする思考が習慣化されているようである.

順序付けを習慣化し,徹底することで精度を上げ,ノータイムで明確な意見を打ち出す.これが大まかな方針である.例えば,商品のパッケージ案に「大容量・高速!」と書いてあるのを見つけると,「わが社の商品の1番の売りは速さでしょう.高速・大容量!にすべきです」みたいな意見を直ちに返す.

この順序付けは,ミクロからマクロまで徹底されていることがポイントだ.適用範囲は,単語の入れ替えから,スライドの構成,果てはプロジェクトのスケジューリングにまで至る.習慣化するには適用回数は多ければ多いほど良い.

さらに,物事に順序を付ける訓練は,様々な能力への派生が期待できる点も重要だ.素早く決断を下したり,結論を簡潔に述べたりする能力というのは,順序付けを徹底的に訓練した結果得られるものと言えよう.

2月7日の日記

これから商売に挑む人のために、負け犬が生き残るため知恵を読んだ.商売において,目先の金のために人を裏切るのはやめなさいと言うもので,学びのある文章だった.特に,最後の一文が気に入っている.

信用は長期的な合理性にしか宿らない。1分先のことしか考えられない人を、1時間先のことしか考えられない人間を誰が信用するだろうか。

人は追いつめられると視野が狭く,短期的になるものだ.この追い詰められた人のふるまいに,私の苦い思い出が重なった.私はかつて,この書類を提出するだけでよい.皆,私の仕事ぶりには呆れているから,黙ってハンコをくれるだろう.それでこの仕事は終わる.そういう気持ちで上司のところに書類を持っていったことが何度かあった.無論,書類の出来はひどいものだった.

その顛末はともかく,結果として,私はたった1枚の書類で多くの信用を失った.あのときの自分が,もう少しだけ遠くに目を向けることができていたなら,失われるものはずっと少なかっただろう.私には,長期的な視野に立ったふるまいが必要だった.

ところで,長期的な合理性という価値を重んじるとするならば,究極的には,私たちは私たちが死んだ後のことについて,考える必要があるのではないかと思う.残念ながら命は有限である.価値判断の射程を自分の命の範囲に限定するならば,私たちは歳を重ねるごとに長期的な合理性を切り捨てなければならない.

長期的な合理性の価値を重んじ,その射程を守ろうとするならば,私たちはいつか,私たちが死んだ後のことについて語らなければならないのだろう.将来について,そんなことを考えた.

それはきっと「いつか」ではなく,「今この時も」なのだろうけれど.

1月31日の日記

ここ数日をかけて,使っているWebサービスのパスワードをすべてユニークな文字列に変更した.漏洩を検知したときに,同じパスワードを使っているサービスがないかチェックするのが大変になってきたのだ.昨今は,どこからパスワードの漏洩があっても驚かないので,せめて漏洩しても被害がそのサービスに限定されるようにしておく.

と,始めてはみたものの,実際にやってみると大変だった.まずパスワード変更のメニューの場所がわからない.頑張って探し当てると,今度はメール認証だとかで結構な手順を踏まされる.最後に,サービスごとに使えない文字だとかパスワードの長さ制限だとかがあって,こちらで発生させた乱数文字列をすんなり受け入れてくれない.すったもんだして100件ほどのパスワードをすべて書き換えた.

ついでに1Passwordを使ってみた.これは,予め登録しておいたパスワードをWebフォームに自動入力してくれるツールで,1Passwordにさえログインできれば,あとのパスワードの管理をお任せできるはず…,のツールである.

これも,それぞれのWebサービスが個性的なUIを実装しているせいで,そううまくは動かない.ユーザー名の入力欄とパスワードの入力欄が別ページに分かれている,というありがちな仕様もツールにとっては障壁で,この場合は片方を手入力する必要がある.ところで,ログインするたびに「私はロボットではありません」と宣言させるWebサービスは一体なにがしたいのだ.1Passwordはロボットだから,そこのチェックは入れられないんだよ.

そんなわけで,あまり使い勝手は良くなく,毎月300円払って使い続ける価値があるかは微妙である.クラウド経由でスマホアプリとも連動していて,スマホでWebサービスにログインする際にも自動入力が使える点は便利なので,これをどれだけの頻度で使うかにかかっているだろうなぁ.

1月20日の日記

勘違いだらけの「長期投資」.良い記事だったので,ここに紹介したい.タイトルや導入部分には正確さを欠いた表現があって好きではないのだけれど,その後の本文は大変良い.だいたい,1ページ目の後半あたりからが本文だ.冒頭が堅いと読んでもらえないとかそんな都合だろうけれど,構成でいささか損をしているのではないかと思う.

そんな記事ではあるが,タイトルにもある通り,内容は長期投資の解説である.投資家がリスクを引き受けて対価を受け取る仕組みや,長期保有は純粋に取引コストにおいて有利であることなど,基本的な性質が平易に解説されている.

投資に関する記事には,誰にでも心当たりのあるようなことを言って,読者に投資のコツを見出した気分にさせるものも多い.そんななかにあって,堅実で価値ある解説記事であった.自分が何をしているのかを振り返るきっかけになるのではないかと思う.

1月18日の日記

それは説教ではない。きみは論破されたのだ(反社会学講座ブログ).面白いし,実際その通りと思う.

曰く,何らかのメッセージに対して「説教臭い」という感想を述べるとすれば,それはメッセージに同意できないが,理路に沿った反論はなく,さりとてそれを尊重することもできず,ただ認めたくないという思いがある状態である.

端的に「説教された、とひとが感じるのは、どういうときだかわかりますか。正論をいわれて反論できないときなんです」と理解しておくのがよかろうなと.

1月15日の日記

書いてある通りのことを読み取れずに「わからない」と言う人をインターネットで時折見かけるけれど,中には根気強く説明をしてもらって「わかりました!」に至る人もいる.今日もそんなやり取りを眺めていた.

機械の動作を説明する文章だった.彼はそれを読んで第一声「よくわかりませんでした」とコメントし,すると親切な人が現れて説明してくれる流れとなる.対話を追っていると,彼がしきりに「解釈」という言葉を口にすることに気が付いた.「どう解釈していいかわかりません」といった具合である.

傍から見ている限り,それは書かれた文章を理解できないという問題である.しかし,ご本人によれば,それは解釈の問題,すなわち自身の立場から評価した意味の問題だという.結局,最後も「そう解釈できるのですね」と言って納得し,彼は去っていった.

機械の動作の解釈にお悩みの方がいらっしゃることには,結構な衝撃を受けた.単に,彼が「理解」と同じ意味で「解釈」を好んで使っていると想像できなくもないが,その言葉選びでは客観的な世界観を構築するのは難しく,やはり苦労が多いのではなかろうかと感じた次第.

1月13日の日記

新年,2021年のページを作成した.当サイトはできるだけメンテナンスの手間が少なくなるよう設計してあるのだけれど,年ごとに日記を分けるところは手作業が要る.10年やっても10回しか発生しない作業なので,自動化を作り込むのを諦めた.

新しいディレクトリとテンプレートを作って,いくつかのリンクを繋ぎ変える.ちゃんとマニュアル化していないので細かいところは忘れているが,動いてくれたようである.

併せて,サイトのテンプレートをいくつか変更.W3CのHTML Validatorをパスできていなかった.うっかり.