Lambda

2022年の日記

12月31日の日記

今年は多忙につき、いろいろと疎かになった年でしたが、諸々無事に収まりました。皆様には大変お世話になりましたこと、御礼申し上げます。良いお年をお迎えください。

12月24日の日記

夜行バスを初めて使ってみた。東京-大阪ドリームルリエ号のアドバンスシート。お値段は10,000円。良かったことと悪かったこと。

Pros

  • 目的地に早朝に着けるため時間が有効活用できる。
  • 新幹線と比べ、圧倒的に安い。

Cons

  • 快適さはいまひとつ。疲れる。
  • 遅延のリスクが高め。

今回は、前日まで仕事をして、翌日朝から大阪というスケジュールをこなす方法が、前日の晩に列車で行けるところまで移動し一泊、翌日早朝に大阪を目指すか、夜行バスに乗るしか選択肢がなかった。今回は、睡眠時間を確保できそうな高速バス案を採用した

その結果、バスは大幅に遅延し、目的地には2時間遅れで到着。高速バスのリスクが顕在化する形となった。バスの遅延は、新幹線の遅延と比べて客先の理解も得にくいことも、仕事では使いにくい点と思う。

バスは不満だが、寝ながら移動できる点は非常に有効なので、JRさんにはちゃんと寝台列車をやってほしい。

12月18日の日記

あなたに責任がないならそれ負うべきでないし、相手に責任がないならそれを負わせるべきでない、という話がご理解いただけないことがあった。どうすればいいんだ。

12月3日の日記

主観的な納得感というのは、会話を介して誰かと共有するのが難しい性質のものである。例えば、私がある仕事を「本意ではないですが、やるしかないですね…」と言ったとしよう。この言葉からは、私はこの仕事をやりたくないということは明らかである。一方で、実際には私が納得して仕事をしたのかは明らかではない。「やりたくはないが、今やっておいた方が得だ」と考えて一定の納得感を得ているのか、「やりたくないことを、やらされているのだ」と考えて納得感を全く得ていないのかは判断がつかないのである。

ここで問題なのは、言葉を受け取った人間が勝手に納得感の程度を想像して共感してしまうことがしばしば起きることである。ある人は先の言葉を「事情を解して納得している」と理解するし、またある人は「嫌々やらされており納得していない」と理解するかもしれない。

そうして、後日私が「また同じようなことがあればいつでも声をかけてください」と言ったとき、後者の人だけが「あいつは俺と話を合わせていただけで、本音では嫌がっていないのか」と不満を募らせたりするのである。

11月22日の日記

気に入ったものは何としても手に入れたいという執着心も、気に入らないものは何としても排除したいという敵愾心も、もとをただせば同じしくみ。

11月21日の日記

健全な生活を続けるうえで、休息や遊びに使う「自由時間」を持つことは大切である。そして、その自由時間は、本人にとって予見可能でかつ自動的に確保する方がよい。

つまり、それをどのように使うか予め考えておく余地があり、申し出なくても自動的に設けられる自由時間は質が高い。

具体的には、毎週やってくる定休日は自由時間のなかではかなり質が高いし、反対に急に仕事が減って急きょ取得するさせられることになった年次有給休暇の質は低い。

11月16日の日記

宗教が人の心の安定の役に立つ理由の一つは、それが神の視点であれ、自然の法則であれ、認知プロセスの理解であれ、「私」の主観ではない立場で自分を見つめるフレームワークを提供してくれるからであろう。

そのようなフレームワークを必要とするほど、私たちが「私」が考えた客観的な自分から抜け出すことは難しい。

11月15日の日記

対象を、自分にとって都合のいい部分と都合のわるい部分に分離できていないのに、都合の悪い部分だけを非難するような人を、信用する気にはなれないものである。

分離して考えること自体が問題だという話ではなく、現実は分離できていないということがわからない程度の認識では、役に立たぬという話である。

11月13日の日記

人と関わっていくうえで、グレーゾーンの認識が適切でないが故に発生する問題というのは多いと思う。立場上「いいですよ」と言えない人に許可を求めてしまうとか、断言できないことを断言してしまい、その根拠を問われて答えに窮するとか。

このような状況はグレーゾーンを力強く踏み抜かなければ避けられるのだが、踏み抜いた方はそれに気づかずに相手に不満を持ちがちで、話がこじれやすい。

10月22日の日記

言動の平仄が合っていない状態を座りが悪いと感じるのは、美意識の問題だ。当人がそこに何の美醜も感じていなければそれは問題ではないし、そういう人もおそらく多いだろうと思う。

10月18日の日記

多くの人にとって、人間中心の価値観のなかに自分を見出すのは難しい。神を中心とする価値観を採用する方が救われるような人は多くいるだろうし、私もその1人かもしれない。

ただその場合、現代の神は生活上の利益を殆ど提供していないので、心は救われても身体の方は自分で何とかしなければならないという問題が残る。人間は具体的すぎて理解が難しく、神は抽象的すぎて実践が難しい。

10月14日の日記

札幌で育ったので、小学生の頃はマンガで見た、歩いて行ける異国としての「隣町」という概念がよくわからない。

基本的に北海道の人は、アイデンティティを感じる地域の最小単位が市町村なので、札幌市の人は札幌市に愛着を感じることはあっても、それより小さな手稲区に愛着を感じることはあまりない。そして、北海道の市町村はどれも車を使わないと境を超えられないほど大きい。だから、基本的に歩いて行ける範囲にお隣との境はないのである。

10月7日の日記

自分のことにせよ、相手のことにせよ、人が負っている責任が見えるというのは大事なことだなぁと思うことがしばしば。

10月4日の日記

相手の言うことのなかから、自分が理解できていないことを見つけるのが上手くなると、仕事で大変役に立つ。

10月3日の日記

「相手が好意でしてくれたことが、自分には好ましくなかった」というときに、不満を露にしたり、あとで陰口を言ったりするのは大人気ないぞという話をしようと思ったのだけれど、そういえば私にも相手の純粋な好意であっても許せないことがあるのを思い出した。

それは、何かを褒めるために比較対象を貶す話し方である。これは例えば「Apple watch使ってるんですか。オシャレだなぁ。<他者製品>なんてダサくて使い物になりませんよ」みたいな話し方で、単に私が喜ぶだろう考えて、心にもなく後半の<他社製品>のくだりを付けてしまう人というのが世の中には一定数いる。

よく話を聞けば、その人は<他社製品>をそれほど悪いものだとは考えておらず、単に私に話を合わせているのだということはわかる。だとしても、こうしてブログにグダグダ書く程度には、私はこの話し方が苦手である。

10月2日の日記

対象物どうしの関係を厳密に書き下す、あるいは、それを読んで理解することは、多くの人にとって難しく苦痛である。しかも、その種の厳密さは社会にとって必要なので、扱いが苦手なために苦労をする人は少なくない。

それは解決すべき課題であるが、では教育によって解決できる課題なのかと考えると、確信が持てない。数十年のソフトウェア工学教育が、学生の一定の割合はポインタを理解できないと考えるに至ったように、教えればできるようになるというものではない可能性が少なからずある。

9月30日の日記

具体例は説明したことに対して示すべきであって、説明していないことを具体例で確定させようとするのは、説明を与える側の怠慢であると思う。

説明に曖昧さがあったために、聞き手が誤った理解をしたことに対して、説明者が「あれとか、それのことですよ。これで疑問は解消しましたか?」と具体例を与えるやり取りを見たのだけれど、具体例から類推しないと伝わらないような説明しか与えていない説明者の技量に不満を感じた次第。

9月27日の日記

これまで人間の子供は、他の動物とは違って、自力では歩けない状態で生まれてくるなんて不便だなぁと思っていたのだけれど、実際生まれてみると不便でよかった。

彼らは好奇心旺盛なので、少々身体能力を制限して、自力では動き回れないくらいでないと、生存に関わる。逆に自力で歩けるくらいの身体能力を残したければ、誕生後に規律ある行動をとれるよう、生まれる前にいくらかの本能をインストールしておいてもらう必要が出てくる。「自分で歩ける」と「好奇心旺盛でなんでも試そうとする」は同時に実装してはならんのだ。

9月23日の日記

カメラレンズのオートフォーカスの調子が悪くなってきたため、替えのレンズとしてCanon EF 24-105mm F4 L IS USMを発注。以前使っていたのはSigma 18-125mm F3.8-5.6 DC OS HSM

普段使い用の標準ズームレンズで、外出時に1本だけ持ち出すときに使う。レンズ選びは倍率、明るさ、値段のバランスが悩みどころである。なお、以下の話は、センサーサイズがAPS-Cという前提。

まず倍率だが、これは望遠側が150 mmもあれば十分である。200 mm以上の望遠は事前準備なしに扱うのがやや難しいレンジであり、旅先で偶然出会うシーンくらいであれば、100 mmで広めに撮っておいて、現像の時に200 mm相当に切り抜くやりかたでも十分な場合も多い。同じ価格帯で比べれば、倍率が大きいほどシャープさやコントラストで劣ることも考えると、望遠側は100 mm程度、大きくても150 mmあれば十分だろう。一方、広角側は24 mmくらいあると旅先の記念写真や風景写真に十分使える。欲を言えば18 mmくらいは欲しい。

次に明るさだが、これは明るい方が重く、値段も高い。ただし、きれいなボケを狙うときはちゃんとそういうレンズを使ったほうが良いので、普段使いレンズにおいて、明るいことの利点は、薄暗い場所で撮るときに便利くらいのものである。F4あれば十分明るく、F5.6も許容できる。

そうして最後に値段だが、これは故障リスクとの兼ね合いになる。ここぞというシーンで使うレンズとは違い、普段使いのレンズは使用頻度が高く、冬の屋内・屋外の温度差、梅雨の湿気のなかで酷使される。そういう過酷な環境を嫌ってカメラをしまい込んでしまっては本末転倒で、これは消耗品と割り切って使える値段に留めるのがよい。

そういうわけで、今回は、画角はやや控えめに、代わりに明るさやシャープさに重点を置いて、Canon EF 24-105mm F4 L IS USMを選んだ。お値段的には以前のものより1ランク高いのだが、最近は私のカメラの取り回しが少しは上達してぶつけたり濡らしたりが減ってきたので、大丈夫だろうと高をくくった。中古品を購入したので、レンズが長生きするかどうかは運が多分に影響する。

というわけで、良いレンズがお越しになることを願って待つ。

9月17日の日記

6軸の加速度センサ(3軸の加速度 + 3軸の角加速度)を使って物体の移動量と姿勢の推定を行いたいのだけれど、素直に各成分を積分すると盛大にドリフトする。もう少し精度よく推定する方法はないものか。

重力加速度の方向から姿勢を求め、カルマンフィルタを介して角加速度のドリフトを補正する方法はあるのだけれど、これは前提として重心が移動しない、あるいはその影響が回転に比べて十分に小さいことを前提としている?適用範囲がよくわからない。

前提知識がほとんどないのだけれど、何故かデータだけ手元にあって、どう料理しようかとても悩んでいるところ。

9月9日の日記

いつも言うように、既に自ら責任主体となって行為すべき成人であるにもかかわらず、「されたされた寄越せ寄越せぴえんぴえん」だけを喚き続けて利権を貪るマジョリティが跋扈するようになったことには、社会がそれを許す「イネイブラー」であり続けたことにも大きな原因がありますよ🐧

ニー仏 - ツイート

責任主体となる、ならないの違いとは、例えば、病気に際して医者の力を借りて病気を治そうとすることと、病気は医者が治すものだと考え自身の病気と向き合わないことの違いにあたるだろうか。

元のツイートを読んで感じたのは、社会の中で分業が進み、専門家の力が増すほど、その中で私たちが責任主体として行為することは難しくなるのかもしれないということであった。つまり、専門家に頼むことを拒むなら、その社会で文化的に生きることはほとんど不可能であり、さりとて、専門家に手放しで寄りかかるなら、それは責任主体である自分を手放すことになる。

9月8日の日記

NFTのmarimo。ちょっと欲しかったのだけれど、一瞬で売り切れてしまった。しょんぼり。

9月7日の日記

自由とか権利とかいう言葉を、道徳的に正しい「良い言葉」くらいの認識しか持っていないと、誰かの自由な判断が私にとって不都合だという事実を正しく言語化できなくなる。

9月4日の日記

オンラインショッピングや電子決済に不慣れで、利用できない人がいるという問題は、以前は電子機器の操作への習熟度によって受けられる便益に差が生じるデジタルディバイドと認識されてきた。

近年では、人口の大部分インターネットを扱える環境が整い、状況は改善しつつあるようだ。同時に、取り残される人たちが抱える課題も、電子機器への習熟度という表面的なものから、抽象的な概念の扱いが苦手で取引の過程で実際の商品が手元にない状況に対応できない、といったより本質的なものへと変化しているように思われる。

8月15日の日記

あらゆる学びや鍛錬は、最終的にそれを高め、維持する生活習慣を必要とする。それゆえ、新しい生活習慣を取り入れることは、何かを学ぶうえで重要な手順であり、私たちが最も意識的に取り組むべき課題でもある。

生活習慣(ルーティーン)の構築に長けている人は、多くの場合、「やる」と宣言したことを最も手際よくこなす人たちである。

8月14日の日記

自分のやるべきことや、やりたいことを実行するのが難しくなったときに、それを中止できるというのは、自立の要件の一つである。かつて自分がメンタルを壊したときのことを振り返って、最近はそう考えている。

実行が難しい状況になっても中止をせず、無理にでも実行しようとするのは、多くの場合、中止の決断ができないからである。そして、自ら中止の判断ができない限り、その人は中止を勧告してくれる誰かを必要とする。だから、これは自立の要件なのだ。

殆どの人は、「できないことはやらない」と頭では理解しているが、さて目の前の課題をどう片づけたものかとなったとき、中止するという選択肢がすぐに思い浮かばないことも珍しくないのではないか。やると決めたことの中止を決断する能力は、訓練を経て身につく技能であって、大人になれば自然にできるようになるものではない。

かつての自分も、中止の決断ができなかった。何も手放せないまま、ひたすら「やるべきこと」を積み上げ続けた結果、ついにはメンタルの不調をかかえるまでになってしまった。しかも悪いことに、中止の決断をしたくてもできなかったのではなく、自分にはそれができないという自覚そのものがなかった。私に無理が生じないように仕事を振るのは上司の責任であり、部下である私は、指示されれば無理をしてでもやり遂げるほかないのだ、とさえ考えていた。

私が中止の決断をできない人間なのだと気づいたのは、上司から「好きなだけ業務負荷を減らしてもいいから、この先なにをやるか言ってみろ」と言われたときであった。そう言われてもなお自分の口からは、抱えている仕事は全て自分の仕事だと思っている、時間はかかるがやるしかないという言葉しか出てこなかった。そこで自分は、抱えた仕事を中止し、切り捨てると自分の口から言えないのだと初めて気が付いた。自分が、誰かに飲み込める大きさの餌ををもらわないと生きていけない雛鳥のように感じられた。

それから、「お前のスケジュールだとこれとこれは間に合わない」と上司に仕事を取り上げられることを何度か繰り返して、ようやく「これは無理です」とか「急用が入ったのでこっちの仕事は少し遅れます」が言えるまで、訓練されるに至った。今でも、「できないので中止したい」と自分の口から言う判断は遅いと思う。

自ら中止の判断ができない限り、私は中止を勧告してくれる誰かを必要とする。見かねて止めてくれる上司がいない限り、仕事の品質も保てないというのは自立しているとは到底言えないのである。だから、仕事を中止できることは、自立した人間が備えるべき要件なのだ。

補記 : 仕事を任せるほうからすれば、ダメになる前に「できません」と言ってくれる、というのは仕事を任せるうえでの最低限の品質である。任せたら潰れるまで実行してしまうロボットのような奴に任せられる仕事など知れている。

7月28日の日記

私が幸せでないと感じる理由が「私が何をしても期待したようにならない」ことであるならば、「どんなに健康に努めても、期待するほど身体の調子がよくならない」ことはきっと大変なことであろう。

それに比べれば、「他人が期待したとおりにふるまわない」悩みなど、付き合う人を変えるなり、1人になるなりやりようはあったと振り返る日がいつか来るのではなかろうか。家族が、友人が、同僚がこんな風に期待外れだったと腹を立てていられるのは、自身の生活を十分にコントロールでき、体調管理もでき、その次に重要な問題として他人が気になるだけではないか。決して避けて通ることのできない日々の生活とか、私の身体がもはや自分の意思ではコントロールできないと知ったとき、どのように感じるのだろうかと考えていた。

7月27日の日記

責任あるふるまいというのは、人が自然に身につけるものではなく、訓練や教育によって獲得されるものだ。

当然、訓練していない人にはそれができない。それどころか、多くの場合、彼らは、責任あるふるまいを示さないことが自身の信用を傷つけていることにさえ気づいていない。

7月21日の日記

仕事の難しさを、予定外のことの起きやすさと、必要な時間という2軸で整理する。

すると、仕事は大きく4つの種類に分けられる。予定外のことが起きにくく時間もかからないのは「目の前のことを片付ける」仕事。予定外のことは起きにくいが時間はかかるのは「決まったことをコツコツやる」仕事などだ。

さらに、それぞれの仕事が我々にとって手に負えるかどうかの境界線を描くと、おおむね右下がりの曲線が引ける。対応力がふつうの人であれば、目の前のことを片づける仕事は十分にこなせて、決まったことをコツコツやる仕事にもある程度対応できる。

こう整理すると、予定外のことが起きやすく時間もかかる「プロジェクトを進める」仕事には相当に高い対応力が求められることが見えてくる。この図は、誰かがプロジェクトを上手く進めているのを見て、コツコツやれば自分にもできそうだと感じたときに「自分が時間をかけてやっているのは左上、あの人が時間をかけているのはもっと右上」と冷静になるために使う。

7月12日の日記

人が、扉に勢いをつけてバンと閉めたり、椅子にドカッと腰を降ろしたりといった乱暴な所作をするのは、本人の性格の影響よりも、筋力が足りないという物理的な制約の影響が大きいと思っている。

子供のように筋力の絶対量が小さいと、自動車の扉などの重たいものを動かす際に、全身を使って勢いをつけざるを得ず、繊細なコントロールが困難となる。また、太っているなどして体重に対して筋力が不足していると、身体を動かす/止めることが難しく、椅子にドカッと落ちるような勢いに任せた動きが増える。

礼儀正しい所作には一定の筋力が要るのだ。これは、私が運動の習慣を維持したい理由のひとつである。

7月3日の日記

メンタル面の調子がひどく落ちておる。理不尽を見て憤り、悲しみ、より深い洞察を得る、その過程にいる。

7月2日の日記

趣味の写真の現像ツールとしてLightroomのサブスクをやめて、Affinity Photoを半年ほど使ってみた。シンプルな感想だけ言うと、Lightroomに戻りたい。

Affinity Photoは買い切りライセンスなので、毎月お布施を払うLightroomと比べると、圧倒的にお財布にやさしかった。しかも、Affinity Photoはよくできたソフトで、現像からリサイズ、出力まで一通りのことはできた。品質的にも、申し分はなかった。あえて現像に不満らしい点をいえば、Affinity Photoは若干色が飽和しやすいように感じた。だがそれも、操作に不慣れで調整が甘かったせいだろうという程度で、騒ぐようなことではない。

操作に関してはAffinity Photoはやや直感的ではなかった。大部分は慣れの問題であろうが、トリミング時に縦横比を固定する手間が1手余計にかかるなど、UIを改良してもらいたい点をいくつか指摘できる。

使ってみて不便を感じたのは、Affinity Photoは写真を一覧表示して使えそうな写真を選び出したり、同じ設定を複数の写真に適用して見比べたりといった、スクリーニング作業ができない点であった。この点は、そもそもAffinity PhotoはPhotoshopと比べるべきソフトであってLightroomの機能と比較すること自体が間違っている。

とはいえ、スクリーニングができないというのは撮影から現像までのワークフローのなかで大きなボトルネックである。最後の仕上げはAffinity Photoでやるとしても、スクリーニングのためにLightroomが欲しい。そして、Lightroom(とPhotoshop)があるのなら、Affinity Photoをあえて使いたい理由は特に見当たらないというのが今のところの感想だ。

7月1日の日記

誰かのある一面を見て、その人を妬むということに実感が感じられない。少なくとも自分はそのようには考えていない。

私の上司は私より給料をもらっているだろうが、あの職責、あの働きぶりでのあの給料というところまで思いめぐらせると、妬ましいとは到底思えぬ。諸々ふまえて私もそれを手に入れたいと思うことはあるにせよ、喜びと苦労を考量した結果は、妥当な範囲から大きく逸脱してはいないだろう。

考え始めると万事そうだ。自分がその立場になりたいかというところまで考えて、本気で妬ましく思えることがあるだろうか。もちろん、いまの自分の生活を一切変えずに、あいつと同じ給料が欲しいと思わないこともないのだが、そこまで現実離れした仮定を置くと「あいつ」はもう関係なくなっちゃうからなぁ。

6月30日の日記

むかし、仕事の引継ぎが上手くできず、なかなか休みが取れなかったとき「私は、誰でもできる簡単な仕事しかしていないのに、自分はそんな仕事の引継ぎさえできないのか」と無力感にさいなまれたものだった。

いま考えるとこれは妥当ではないな。誰にでもできることではない難しい仕事は、その人にしかできないからそもそも引継ぎが発生しないのだ。あるいは、属人化しては困るような仕事はマニュアルが整備されていて引継ぎのハードル自体が低い。

かつて私が担当していた、属人化してもいいから誰かにやらせておけというタイプの雑用は、仕事の中でも引継ぎが難しいやつだった。

(この話、何か月か前にも書いたような気がする)

6月28日の日記

子育てについて (1) 名前のことにも書いたけれど、最近は、いまの時代に育つ子どもたちがインターネットとどう付き合っていくべきかについて考えている。特に、インターネットから情報を得るときの負の側面をどのように受け止めるべきであろうか。

インターネットに触れるということは、世界ランキングに曝されるということだ。スポーツであれ、ゲームであれ私たちはインターネットを通じて一流プレーヤーの動画を見ることができる。数学であれ、生物学であれインターネットを通じて圧倒的な専門知識に触れることができる。自分の得意なことを、自分よりも上手くやってのける人たちをいくらでも見つけることが日常となったとき、子どもたちは何を思うのか。

幼い頃の私にとって、私はそれについてよく知っているし他人より上手くやれるという自信過剰は、学びの原動力であった。もし、自分よりも上手い人が大勢いるのだとか、試してみなくともググればいい答えがあるはずだという考えが常につきまとっていたら、どうして自分のすることに事に没頭できただろうか。インターネットはそうやって、子どもたちが経験から学び、自信を持つことを阻害するのではないかという懸念がある。

だからといって、子どもたちをインターネットに触れさせないというのは、良い選択ではない。デジタルネイティブ世代にとって、コンピュータを使いこなすことは必須のスキルであり、マニュアル通りにそれを操作できるというだけでは甚だ不十分だ。彼らはそれを活用し、遊び、その利便性のみならず危険性や限界まで深く理解しなければならない。

また、インターネットは学びの宝庫でもある。かつては、子どもたちが図鑑に載っている以上の知識を得るには身近な大人の助けが必要であった。幼い頃の私は、気象について学ぶことはできたが、水生生物について学ぶことはできなかった。私の両親が、雲の形の話はするが、川底に見える生き物については話さなかったからだ。いま、インターネットは、大人の助けなしに学ぶ道を子どもたちに与えている。現代の子どもたちは、幼い頃の私よりずっと簡単に、水生生物について知ることができる。

インターネットは、子どもたちの世代が生きていくための必需品であり、便利な道具である。同時にインターネットは、子どもたちを、殆どの人が頂点に立つことのない競争の世界に引き込み、彼らが自信に満ちた探求に没頭するのを阻む障害なのだ。

ゆえに、子どもたちとインターネットの関わりをどのようにデザインすべきかは、親として悩ましいテーマである。

6月19日の日記

ここ1-2週間ほど、読書によるインプットの時間が減少しており、あまり状態が良くない。そして、運動の時間もゲームのプレイ時間も減っている。

つまり、心身のメンテナンスを削って、なんとか必要な事を継続させているだけである。良くない。

6月10日の日記

孫引きになってしまうが、「ローマ皇帝のメンタルトレーニング」という本からの引用部分が興味深い。

私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。

ストア哲学の考え方だそうだ。置かれた状況をどのような言葉で表現するかによって、現状認識やそれに伴う感情が方向づけられるというモデルは、認知行動療法や仏教などとも共通する。

これまで、西洋哲学にはあまり触れてこなかったのだけれど、これで興味深いとっかかりを得た。ストア哲学も近いうちに読んでみようと思う。

6月7日の日記

時間管理の技術も、空間管理の技術も、お金の管理の技術も、根っこの部分は有限のリソースを管理するという共通技術である。だから、できる人は全部できるし、できない人は全部できないことになりがち。

6月5日の日記

最近、新しい洗顔料を買ってみた。

というのも、先日こんな記事を読んだからである。

角栓の構造、従来の方法では洗浄が困難な理由から、その解決策までが鮮やかに示された興味深い記事であった。化学は、対象物に効果的に作用する成分が存在したり、分子構造のわずかな違いによって反応速度が劇的に変わるところが面白い。

これまで洗顔料については、どれも界面活性剤なのだから本質的には石鹸と変わらぬ、と考えており、洗顔料を選ぶこと自体にあまり興味がなかった。記事を読んで、角栓落としに俄然興味が出てきたというわけ。

そんなわけでビオレの洗顔料を購入し、入浴時に使ってみた。使い心地はというと、これは泡立たない洗顔料なので、石鹸というよりはクリームを塗るような恰好になる。皮脂が大変よく落ちて、洗顔後には顔に触るとぺたぺたと指が顔にくっつくような感触がある。毛穴の汚れまで綺麗に落ちるところはふれこみ通りだ。使い始めて1週間ほどで、毛穴自体が一回り小さくなって以前よりも目立たなくなったような気がする。

というわけで、確かに洗顔料は角栓に効果的に作用しており、洗顔が少し楽しくなった今日この頃である。夏に汗をかいたときのべたつき感が軽減されたりしないかな、という期待もあり、しばらく使ってみたいと思う。

6月4日の日記

昨日は、私たちが感じ考えることの多くは、そういう習慣の結果であり、私たちの意志で選択できるものであると述べた。

もちろん、そう理解することと、それを実践することの間には大きな隔たりがあることも事実である。習慣を変えるためには、本人の意思と技術的な問題に並行して対処する必要があるからだ。人はタバコをやめた方がよいと理解しただけで、直ちにタバコを吸いたい気持ちが収まるわけではないし、ニコチンパッチを貼れば自動的にタバコをやめるわけでもない。習慣が今日の心の持ちようで変わるものではない以上、それを変更するには一定の時間を要する。

そうだとしても、それが私にとって変更不可能なアイデンティティではなく、変更可能な習慣であると理解することは、私が自身の人生を手綱を握るための最初の一歩であろう。

6月3日の日記

私たちは、自身が感じ、考えることを自身のアイデンティティと結びつけて考えることがある。しかし、実際には、私たちが感じ考えることの多くは、そう考える習慣の結果なのだ。習慣は、自身の(変更不可能な)アイデンティティとみなすべきではない。

習慣を変えることは時に困難を伴うかもしれないが、実行可能である。私にタバコを吸う習慣があるからと言って、私とはタバコを吸うことは変更不可能であり、受け入れるしかないとみなすのは馬鹿げている。考えについても同じだ。私は考えの偏りを持ってはいるが、それを私のお気に入りの考え方と見ることも、将来的に変えたい考え方だと見ることも私自身が選択すべきことである。

6月2日の日記

テキストで送られてくるテレメトリデータを整形し、分析用にデータベースに格納するという作業をやっている。

全部のデータを目視でチェックすることができない状況で、データがおかしくないかチェックするのはコツがいる。各所に適切なアサーションを入れるとか、そういうの。

5月26日の日記

人生で起きる困難は、だいたい夏休みの宿題のようなものである。そんなものをやる習慣がないせいで、いつまでも消化されずに残ってしまう。

ただし、人生で起きる困難のいくつかは、締め切り前日に徹夜で終わらせるような泥縄の手段が使えない点で、いささか困難のランクが高いかもしれない。その場合、対応策は3つしかない。諦めて毎日取り組むか、自分以外の誰かにやらせるか、やらないと決めて先生の説教を受けるかである。

3つの中では、毎日やるという解決策が最も平和的だ。特に、毎日何も考えずに机に向かうくらい、習慣的に淡々と片づけてしまう方法が良い。それをするのが自分にとって当然の習慣であれば、やりたくないという気持ちと戦う必要すらない。

誰かにやらせるという方法もある。人に仕事を頼むというのは立派な技能だ。少し工夫して、科目ごとに得意そうな人に頼むなど、タスクを細分化することで効率を上げる技もある。

諦めて先生の説教を受けてもいい。不利益を甘んじて受けると決め込んでしまえば困難はもはや困難ではない。

結局のところ、困難で行き詰まるというのは、習慣的に淡々とそれに取り組むことができず、誰かに頼むようなつてもないが、不利益は受けたくないというデッドロック状態なのである。

5月24日の日記

現代の日本において、自分自身を含む「人」を納得させうる根拠は、合理性以外に殆どありえないのに、それに基づいて判断を下すことは私たちにとって負担になりすぎる。

結局どこかで不合理をやらざるを得ないのならば、せめて、その不合理は誰かの合理と敵対しないものであってほしい。信仰とかポリシーとかいうのは、まさにその「事を荒立てない不合理」を支えてくれるものだろうと思う。

5月15日の日記

レンタカーでパラレルハイブリッド車に乗ったらギアが変わるタイミングで加速度が変化するのが気になった。普段載っている日産のe-POWER(シリーズハイブリッド)は、ペダルの踏み込み量と加速度の対応が良いところが気に入っている。

e-POWERだから良いというつもりもなくて、パラレルハイブリッド車も基本は無段階変速のはずなので、どうして途中で加速度が変わるのかは解せない。エンジン回転数が変化するタイミングで加速度がぶれるとか、電動アシストを切るのがスムーズでないとか、そんなところではないかと思うが。

5月9日の日記

物事の定量的な関係を数式で書けるというのは、結構な特殊スキルだ。数式が書けるというのは、思ったことを外国語で書けるのと似ている。

数式にせよ外国語にせよ、その巧拙とは別に、それをストレスを感じずに使えるかというベクトルがある。誰かがストレスを感じることなく、日常のなかでそれを使いこなしているかどうかは、彼が実際にそれを使っている場面に立ち会わない限り見えてこないものである。テストの点数は取れるが日常ではそんなこと考えもしないという人は結構いる。

5月6日の日記

動物と人間のあいだ - 第6回 フェミニズムは「男性問題」を語れるか?(ベンジャミン・クリッツァー)

システム化思考と共感思考の話が興味深かった。

男女の傾向の基本的な違いとは、男性は「モノ」に対する興味が強い一方で、女性は「ヒト」に対する興味が強いことだ。

(中略)

男性の「対物志向」と女性の「対人志向」の背景には、男性の「システム化思考」と女性の「共感思考」との違いが存在する。

私自身がシステム化思考に寄っているので、次々と繰り出される指摘に強く思い当たる節があった。

「自分がこんなこと言ったら、相手はどう思うか」「今から自分がはじめようと思っている話題については、相手にも考えや意見があり、不用意に自分の意見を開陳してしまうと相手に不快感を抱かせてしまうかもしれない」などといった配慮をはたらかせるためには、共感的な思考をおこなうことが必要となる。そして、それができない人の言葉は、相手からはハラスメントや「上から目線の説教」であると感じられてしまう可能性が高いのだ。

ぐぬぬ。

友人が離婚や病気などつらい目にあったときの対応をみると、 相手の感情を考慮しながら適切に慰めたり励ましたりできる女性が多いのに比べて、男性は友人がつらい目にあっていてもどう対応すればいいかわからずに戸惑ってしまうことが多いのだ。

あるなぁ…。

紹介した記事の全体は、個人のふるまいの違いは立場の違いによって生じるとする思想に対して、生得的な気質にも目を向けるべきであることを主張するものであって、よい指摘であるように思う。

「動物と人間のあいだ」シリーズはどれも面白く、おすすめである。

5月3日の日記

「仕事は皆で協力して片づけるべき ←→ 仕事は担当者を決めて任せるべき」という軸に対してどちら寄りの立場をとるかが違いすぎると、話がかみ合わないことが多いと気が付いた。

前者寄りの人間に仕事を任せると「押し付けられた」という不満が生じやすく、反対に、後者寄りの人間の仕事を無理に手伝おうとすると「信用されていない」という不満が生じやすい。

これには程度の問題もあって、私などは基本は担当者を決めるべきと考えつつも、依頼したあと全くフォローしない上司に対しては不満を持ちがちである。

4月23日の日記

反撃能力(敵基地攻撃能力)って具体的にどこを攻撃するのだろう。敵の拠点を叩くことが、防衛に有効だというのはわかる。けれども、本当に相手国の領内にあるミサイル基地を攻撃する場合が存在しうるのか。特に相手が核保有国であれば、現在のウクライナがそうであるように、相手国の領土内への攻撃は不可能であろう。

だとすると、日本に隣接する核保有国であるロシア、中国、北朝鮮に対して使える見込みのない能力とは何ぞや、ということになる。相手が築いた橋頭保を攻撃するとか、考えられなくはないのだが、実際どうするつもりなのかは気になる。

4月22日の日記

自分にこなせるだけの役割と与えられたうえで頑張りを褒めてもらえないと不満だという無責任な話は、せめて大人同士の会話では聞きたくないなぁと思う。

責任を引き受けるというのは、まさにこのような態度がやらなかった仕事をすること、事実と向き合い結果を評価するということである。

4月14日の日記

私のネットワークの知識は基本的に3分間NetWorkingさんで学んだ。もう15年近く前の話なのに、今でも大変役に立っている。ネットワーク初学者にはお勧めの教科書だ。さらに先の中級者(応用情報技術者とか?)くらいまではこれで通用すると思う。

Flashアニメーションによる図解が含まれているため、現在は説明が歯抜けになってしまっており大変残念だ。書籍版を買っておこうか悩んでいるところ。

3月31日の日記

GTDが崩壊して目についたものから片づけるモードに入っている。目先のことにとらわれると、無暗に忙しく感じるので心に良くない。

3月24日の日記

形の上で相手を一人前の人として扱ことが相手に喜ばれる態度だと思ってきたのだけれど、それでは上手くいかないことが多くなってきた。

当人が当然引き受けるべき責任を認識していなかったり、そもそも責任を負うべきとも負いたいとも思っていない人もいる。そうであれば、相手に責任を負わせない関係の持ち方としての「半人前扱い」は必要だというのが最近の認識。

3月15日の日記

私は場所の話をするときにその方向を指さす癖がある。それ自体は珍しい癖でもないのだけれど、屋内に居ても方角がわかるという特技と合わさると時々驚かれることがある。「うちの実家では~」とか言いながら部屋の隅(北海道の方角)を指さしたりして。

3月14日の日記

最近なんだか書くことが自分らしくないと思っている。一つ一つは日常生活で自分が感じた事柄が元になっているのだけれども、以前の自分とは世界の切り取り方が少し違うのだ。

最近、自分の考えを一定以上の長い言葉で綴ることができないことに悩んでいる。日常会話程度の短い言葉ではあまり苦労を感じないのだけれど、メールを書いたり、ブログを書いたり、もっと長い報告書や論文の類は特にダメだ。

これは、書けないというアウトプットの問題だけでなく、もっと根源的な問題の可能性があって、なお恐ろしい。つまり、書けないのではなく、そもそも私の中に長く首尾一貫した論理がないのではないか。

頭の中で思い描いているときにはとても明瞭だったあれこれが、ひとたび言葉にしようとすると散り散りになってしまう。普段、疑いなく私の考えはこうだと感じている何かは、実はひどく穴だらけであって、一つの文章になどならないのではないか。私の中に理路整然とした構築物は最初から存在しないし、私はそれを構築する能力をすっかり失っているのではないか。

自分の中に、もう一度、論理の構築物を見出したいのだ。書かなければ本当に何も構築できないままだ。ここに書いているのは、日々の生活の中で、思わず言いたくなったことや、これなら書けると勢いづいたことなのだ。私にとって、1か月にいくつもないほど強い思いなのだ。

こんな訓練でも続けていて良かったと感じる日が来るだろうか。そうだと良いと思いながら日々書いている。だから、最近いろいろ書くことの論理の良し悪しには意味があるけれど、一つ一つの主張は話半分に見てもらうくらいが丁度よい。

3月9日の日記

「自称、人の気持ちがわかる人」たちがいる。彼らは、人の感情に強く共感する心を持ち、特に原因が簡単な感情に対しては、豊かな語彙をもってこれを理解してくれる人たちだと思う。だが、彼らの中にも、もっと原因が複雑な感情に共感できる者を見たことはない。

原因が簡単な感情、例えば、試験に受かると嬉しいとか、病気にかかると悲しいとかいう気持ちは、多くの人に共通する感情である。「自称、人の気持ちがわかる人」たちならば、これに共感して喜んだり悲しんだりすることもできるかもしれない。けれども、もっと原因が複雑な感情、例えば、これから大事な会議があって気持ちが張りつめているところ、出されたコーヒーが思いのほか熱くてカチンときた人間の気持を理解し、ましてやこれに共感できる人がどれほどいるだろうか。

IT業界には、初心者の自信過剰を皮肉った「完全に理解した」というスラングがある。ある専門分野に入門し、初級の本を一通り読みこなすレベルになると、誰しも自信がつくものだという意味である。練習用に用意された問題を卒業して、現実の問題を自らの力で解決できるようになり、同時に、周囲からもその分野に詳しい人として頼りにされるようになる頃だ。「完全に理解した」というスラングは、「私に何でも聞いてくれ」とでも言いたいほど自信あふれた状態であることを表現している。

だが、これは初心者の自信過剰にすぎない。初心者からさらに、その分野を深めようとするならば、いずれは上級者の洞察やプロの物量に触れ、自分はその分野のほんの一部しか理解していないことを知る。その道を知る者ほど、自らの限界をよく知っているものである。「完全に理解した」というスラングは、自信に満ち溢れているうちはまだまだ初心者だという戒めである。

私は、「自称、人の気持ちがわかる人」たちというのは、そういう状態のものであろうと思う。確かに彼らは人の気持ちが少しだけわかるのだが、その自信のほどはいささか過剰に思われる。

3月6日の日記

母親への信頼の強さが人間関係の構築に与える影響について、ぼんやりと考えていた。母親のことをどれだけ信頼しているかは、彼/彼女が人と親密にかかわるうえでの型をある程度規定しているように感じられる。

端的に言って、母親への信頼が低すぎると他者を信頼しない傾向にあり、母親への信頼が高すぎると不確かなものを嫌う傾向があるように見受けられる。

2月20日の日記

電気代が高いので、太陽光発電について考えていた。といっても、商用電源と接続するような大規模なものは難しいので、スタンドアロンの太陽光発電を考える。比較的規模が大きいものだとJackeryのポータブル電源、少し小ぶりなものでは、Ankerのソーラーチャージャーあたりが選択肢になりそうだ。

そもそもの動機が電気代なので、導入にあたっては発電量と消費量のバランスをある程度デザインしておきたい。このとき、商用電源と切り離し、スタンドアロンとするという制約はかなり不便だ。我が家で電気の受け手になれそうなのは、スマホやタブレットなどのモバイル機器くらいしかなさそうである。かなり小ぢんまりしたシステムになるかなぁ。

2月15日の日記

私は、話し合いの場で当事者としての意見は一切出さず、第三者としての情報ばかり出してくる人が苦手だ。彼らは、「前例はこうだ」とか「あの人はこう考える」とかしきりに言うのだが、だからどうすべきかは一切言わぬ。そうした言葉は私の足を引っ張るように感じられて、快く思わない。

けれども、彼らの言葉が足を引っ張っているという認識は、真実ではない。例えば、前例についての指摘には、我々は前例を踏襲すべきなのか、違った対応をすべきなのかという論点を明確にする効果がある。だから、そうした論点を見落とした場合よりも、結論はずっと確実なものになるであろう。端的に言って第三者としての情報は、有益なのだ。

では、有益な情報をもらうことがなぜ快く思われないのか?今日はそのことが上手く言語化できず、自分の感覚が腑に落ちないままであった。

1月22日の日記

まだ読み始めたところではあるが、こんな文書を読んでいる。

コインハイブ事件における弁護活動 - 平野敬

今のところ、冒頭に書かれた一文が衝撃的であった。

たとえば、「ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こす可能性が絶対にないと言えるか」と質問された場合、エンジニアとして誠実な応答は「絶対にないとは言えない」だろう。理論的にはそれで良い。しかし取調べでこう答えた場合、あなたの調書にはこう書かれることになる。「私は、この羽ばたきが竜巻を引き起こす危険なものかもしれないとあらかじめ認識していました」。

最初、私はこのたとえ話の意味を「一般市民の言葉を、法律家が曲解することがある」と読んだ。しかし、もう少し考えてみるとこの話は「エンジニア諸氏の誠実な言葉は、法律家も含めた門外の人間には言葉通りに伝わらない」という意味なのではないかと考え直し、なんとも寂しい気持ちになっている。

すなわち、胸を張って「絶対にない」と言わないのは後ろめたいからであり、前後の言葉は基本的に言い訳であるとみなす考え方が、一般的に、存在するのではないか。そう理解すると、記憶のなかに思い当たる節がいくつかあるのだ。かつて妻と喧嘩をしたあれとかを思い出して「もしかして私の言葉は、私の意図とは真逆に近い意味に解されていたのだろうか」とか。

より正確に言えば「伝わりにくいことがある」なのだろうけれど、それなりに知恵を絞った誠実な言葉が真逆の意味に解釈しうる例に思いをめぐらしていると、寂しさを感じずにはいられない。

1月4日の日記

AI化、ロボティクス化は、目的を見失うと「人と同じ作法で何かをやってくれる便利なシステム」を作りがち。目を離すとすぐに、お客様が来るとコンシェルジュロボットがドアを開けてくれるシステムとかが発生するのだけれど、そういうときは素直に自動ドアを付けた方がいい。

1月1日の日記

本年もどうぞよろしくお願いいします。

今年も皆様にとって実り多き年でありますように。