Lambda

2023年の日記

10月22日の日記

忙しくてすべてを処理できない時に、何を後回しにするかは人によって違うかもしれない。

私が忙しい特に後回しにしがちなものは2つあって、1つはテンポの良い返事、もう1つは書類仕事である。なにぶんタスクスイッチのコストが大きい脳をしているので、忙しくなってくるとメールもチャットもかかってくる電話も受けたくない。さらに、私はフォームを埋めたり郵便を出すなどの事務仕事がとても苦手で、こういう仕事をすき間時間に片づけることができないので、後回しにせざるを得ない。

話を聞いたり事務処理を理解したうえで、優先順位を付けて対処する余裕がないので、最初から聞かなかったことにしているのだ。そのうちやるべきことが無数に積みあがって手が付けられなくなるのだが、そうでもしないと大事な仕事が片付かない。困った人だ。

自身の特性を言葉にしてみると、入ってくる連絡を仮受けして捌いてくれる秘書がいればかなり楽になりそうだ。AI秘書とか真面目に検討してみる価値はあるだろうか。

10月18日の日記

平等であることは基本的に望ましい。機会はできるかぎり平等であるべきだし、結果の平等も、ある程度は、社会にとって有益である。だが、平等も程度や状況によっては不利益や不幸のもとである。出る杭は打たれるような文化や、苦痛を他人に分配しようとする行為も平等であるべきだという規範から生じたことを忘れてはならない。

10月17日の日記

人にご迷惑をかけたときの対応。

  1. 相手に損害を与えたら、補償する。
  2. 愚かな行いをしたら、恥じる。

悪気があった/なかったとか、避けられた/避けられなかったとかではない。悪気がなくても人のものを壊したらごめんなさい。口が滑ってもまずいことを言ったら反省しますである。

9月22日の日記

いわゆる高学歴な社会には、他人に期待する平均故障間隔(MTBF)が長いという特徴があるように思う。

9月6日の日記

人間関係において出力が安定しているというのは信頼を得るうえで特に重要である。そして、それを正しく認識して、出力を安定させる努力ができる人は強い。あまり勉強熱心でなくとも、合格ラインを見極めて赤点を取らない程度にサボる学生は、信頼関係の構築も上手い。

9月3日の日記

昨日の話の続き。グループワークに非協力的な人が多い集団では、言い出しっぺが割を食ったり、労力が正当に評価されないことが多く、チームの中で自分の役割を見出して貢献するというロールプレイの場数を踏むことが難しい。

グループに積極的に協力する姿勢は気持ち次第でなんとかなるが、仲間が動きやすいように配慮したり、仲間の努力を正当に評価したりといった協力関係の運用は、経験が浅いとぼろが出やすいのである。

9月2日の日記

これは私の経験則なのだけれど、進学校や有名大学のような平均的な学力が高い人たちには、たまたま同じグループになった人と協力する文化がある。すなわち、何らかのグループワークを命じられたときに仲の良い人をひいきしたり、親しくない人とは話したがらないなどの理由で非協力的なふるまいをする人がとても少ない。

この文化は、進学校の良さである。背伸びをして進学校を目指すことには一長一短があるが、たまたま同じグループになった人と協力する作法を身に着けることに関しては、進学校は優れている。

この作法は、将来、仕事をするときに役立つし、仕事の内容によっては必須である。職業選択の方向性にもよるが、可能な限り身に着けておきたい作法だと私は思う。

7月12日の日記

昔は怪我をしても療養して治るなら問題ないとか、時々風邪を引いて免疫のお世話になるくらいがちょうどいいとか思っていたが、知識が増えたのか、単に年をとったのか、最近はそうは思わない。

最近は以下のように考えている。

  • 怪我や病気を避けよ。身体は壊さず使うに越したことはない。
  • 身体を鍛えたいときは、定格の負荷を超えない範囲で、負荷の時間を伸ばすべきである。

第1に、身体は有機材料でできた機械である。少々壊しても治癒する機能はあるものの、修復箇所がその後に問題を起こさないかどうかは壊れ方次第である。壊さずに使うに越したことはない。

具体的には、骨折をしても殆どの場合に骨をつなぎなおすことができるが、その古傷が生涯にわたって問題を起こさないかどうかは運次第である。あるいは、Covid-19にかかっても大抵の場合は短期間で治癒するが、後遺症を残さないかは運しだいである。

もちろん、そのリスクを負ってでも取り組むべきことはある。怪我のリスクがあっても、スポーツに取り組むことは身体的、精神的にも大きなメリットがある。あくまで、怪我をすることはリスクが実現した悪い結果であり、怪我をしても問題ないとか、怪我をした方が良いとは考えないということである。

第2に、身体をどう鍛えるかについて。身体が許容できる強さを超えた負荷をかけるメリットは殆どない。しかし、体が許容できる範囲の負荷を、時間をかけて与えることにはメリットがある。

具体的には筋トレとか、暑熱順化の考え方がそれにあたる。

7月11日の日記

人を平等に扱うことが社会に徹底されるほど、他人から信用されることの重要性は相対的に高くなるだろう。

誰にお願いしよう、誰と組もうというときに、コネや差別がなければ、最も能力のある人が選ばれると能力主義は教える。

だが、実際に人の能力を見極めるのにはコストがかかるので、必要な能力で足切りしたうえで、私たちは候補者のなかで一番信用できる人をしばしば選ぶ。あるいは、私たちは友人と接するとき、彼の能力によって対応を変えることはあまりないが、彼の信用によって対応を分けることがある。

信用は、日々の行動を通じて長期的に積みあがる性質のものなので、わずかな差が時間を追うごとに拡大する。信用は、再分配が困難なので結果平等を目指すことが難しい。私たちは、差別やコネといった不平等が一つ一つ解消された世界で、次第に信用によって分けられるようになるのではないかと思う。

7月4日の日記

私たちにとって最も重要な能力の一つは、言語を扱う能力であろう。私たちは言語を使って考えるので、その扱いの巧拙は私たちの思慮深さと固く結びついている。

6月26日の日記

「あの時に、ああしてさえいれば防げたのに」という強い後悔を伴う思考を「あの時はそれをすることは無理だった」と言う事実として受け入れることが大事。

—- @RioKun_hattatsu

この話題を聞くといつも思うのだけれど、そもそも「あの時に、ああしていれば」という後悔がどうやって生じるのかわからないのだよなぁ。言っていること自体はその通りで、結論は「それをすることは無理だった」になるだろうと思う。もっと言えば、そのような否定的なとらえ方すら必要なくて「事前に知り得た情報のみで下した判断としては妥当だった」という結論に落ち着かないだろうか。

6月15日の日記

子どもが生まれる前は、子供に対して「ダメなものはダメ」のように頭ごなしに叱ったり命令したりするべきではない。親たるもの、理由をきちんと説明する根気と知力をもって子育てにあたるべし、と思っていたのだけれど、現実はそうはいかないなぁというのが最近の感想である。

共通の信仰を持たない相手に「それをすべき」だとか「それはすべきでない」とか説明を付けること自体が不可能なのだ。できるのは「お父さんはそれをしてほしくないです」という説得と、「それは自分で責任をとれるようになってからやりなさい」という命令である。

「理由をきちんと説明する」は理想に燃えすぎた。現実的な目標は「子どもには紳士的に接する」くらいだろう。子どもが大きくなって、正義とか合理性を共有できるようになれば、また対応は違ってくるだろうが。

6月14日の日記

「数百m離れている」とか言うときの「数百m」という表現は、口語では自然だが、文字にすると違和感がある。百という漢数字に単位記号が付くところがまず不自然だし、mは単位記号メートルなのか一目でわからないのも不安だ。

概数のときは単位記号を使わず「数百メートル」とする手もあるが、次に組立単位でそうするかが問題になる。「加速度は数十メートル毎秒毎秒である」とか、「圧力は数キロニュートン毎平方メートルだ」とか。

6月5日の日記

一度、精神的に危険なところまで追い詰められた事のある人にとっては、求めるものは心の平静であり、それ以外の事は大して重要ではないという心境になるものだ。

その時点から物事の価値が根本から変わり、世界の色が変わる。

ツイート(@makokujira)

私の経験を振り返っても、これはその通りである。

5月26日の日記

ある問題について、今いるメンバーの中では自分が一番詳しくて、試してみたい具体的なアイディアもある。だが自分にはそのアイディアに関する体系的な知識がない。という状況にどう対応するか悩む。

多少でも改善すれば喜ぶ人はいるのだが、私はその分野の標準的な手法で問題を定式化することができていないし、解決策も場当たり的なものにならざるを得ない。モチベーション的にはやりたいが、説明責任までは負えない。

やるなら体系的な知識も含めてその分野にきちんと入門すべきだろう。今回はその勉強時間が取れそうにないので、断るべしという結論は出している。それでも、モチベーションだけは無駄に高いので、ちょっと気になるというか手を動かしてみたい気持ちだけある状態。

5月24日の日記

最近(ここ10年くらい)は、気になることに対してすぐに行動を起こすのが、次第にままならなくなってきている。何かをやってみようとか、調べようとか心に決めたとしても、今はそれをやる時間がない、というのが昨今の状況である。

それでも、きちんとスケジュール管理をすればやるべきことは進むのだが、生活の質は落ちる。時間をおくと、思い立った時に感じた輝きが失われてしまうからである。1週間前にすごく気になってたあれに取り組む時間がようやっと確保できても、当時の興奮がよみがえってくるわけではない。

刹那的な興味に右往左往するのが良い生き方だとは思わないが、かといって興味が薄れかけたことに向き合うのが日常化するのもあまりに非人間的である。

5月23日の日記

あなたがある人に見いだす「性質」、例えば頑固、神経質、臆病など、それらはあなたが与えた「評価」であると自覚しておくといい。他の人はその人を、意志が強い、繊細、慎重だとみなしているかもしれない。同様に、あなたが自分に備わった性質だと思っているものも全てあなた自身の自己評価である。

プラユキ・ナラテボー

5月7日の日記

瞑想とかその元となった仏教について、現時点での私の理解を言葉にすると「私がこのように考えるのは、過去に私がそう考えるような訓練をしたからである」となる。

物の本によっては、瞑想は喜びや怒りといった感情に着目することが多い。だが、私が理解した限りでは、その適用範囲はもっと広く、これは私たちの知的活動全般に共通する理屈である。感情の分野が最も奥深いので、そこに注目することは妥当ではあるが。

4月30日の日記

我々は、周囲の人の期待に応える責任を負っているという認識は大切である。

成功率が低いだろうと相手が思っているような仕事は、失敗してもそんなに謝らなくてよい。反対に、成功率が高いだろうと相手が思っているような仕事は、失敗したら真剣に謝らなくてはならない。謝るべき度合いは相手の期待が最も重要で、それに比べると失敗の大きさは重要ではない。

当たり前のことだけれど、私はまさにこれが苦手なので、自分用に言葉にしておく。

4月23日の日記

道徳は直感よりも理性に基づく行為を推奨する。ゆえに、直感の一種である共感に基づいて行為することは道徳的には推奨されない。

4月13日の日記

心理的安全性の高いチームを作る際に生じる問題として、そもそも心理的安全性の高いふるまいが苦手な人がいるという問題がある。率直かつ活発な意見交換を通じて、チームが多面的な視点を持つという心理的安全性の理想は、メンバーに多面的で多量の情報を受け止めることを要求する。心理的安全性の高いふるまいとは、この多面的で多量の情報を受け止めるふるまいのことである。

話し手として思ったことを素直に話せる環境が嫌いな人はいないが、聞き手として自分が考えもしなかった視点から指摘を受けたり、自分の仕事とは一見無関係な情報を傾聴しなければならない環境を苦痛に感じる人は少なくない。

これは、個人の性格の問題ではなく、言語コミュニケーションへの習熟度の問題だ。自分が思ったことを言うのに大した訓練は必要ないが、そうやって生成された多面的で多量の情報を受け止めるためには、人の話を傾聴したり、たくさんの文章を読んだりすることに苦痛を感じない水準まで、言語コミュニケーション能力を訓練する必要がある。

身も蓋もない話だが、私は、Googleのような言語コミュニケーション能力の上澄みを集めた環境では、心理的安全なチームが生まれやすいのだろうと考えている。

4月10日の日記

昨日の話の続き。そもそも、人に何らかの気持ちを伝えるときには、それが肯定的なものであれ否定的なものであれものであれ初めはやんわりお伝えしたうえで徐々に強度を上げていくべきである。

初手で急激に距離を詰めてきたり、ある日突然ずっと我慢していたんだとぶち切れたりする人とはあんまり関わりたくない。

4月9日の日記

状況を好ましく思っていないことをソフトに伝え「ここは貸しですよ」とリマインドする話術はちゃんと身に着けておきたい。例えば「部長の頼みだからやりますけど、こんな仕事やりたいわけないじゃないですか」をソフトに伝えられるかどうかの差は大きい。

これがソフトに伝わって「こういう仕事ばかりじゃなくて、やりたい仕事も回してやらないとな」という印象を持ってもらえればコミュニケーションの成功。深刻に受け止められて「そうか…、怖いから次から仕事振るのやめとこ」という印象を持たれればコミュニケーションの失敗である。

失敗が起きるのは仕方がないとしても、こういう伝達は意識的にやるほうがよい。好ましくないことをソフトに伝える手段は磨いておかないと人間関係の微調整が難しくなる。

3月30日の日記

私は、インターネットで時々見かける、発言者が指摘したのと同じことを発言者に教えてあげるというディスコミュニケーションがとても気になる。

Aさん「この記事はシアン・マゼンタ・イエローを光の三原色と呼んでいるが、これは誤り」、Bさん「Aさん、それはレッド・グリーン・ブルーと言いたいのだと思います」という感じのやつ。Bさんが元の記事に対して訂正を促すのならわかるのだけれど、なぜAさんにそれを言のか?言われたAさんだって「おそらくそうでしょうね」くらいしか返しようがないだろう。

正解を知っている人に正解を教えにいくというBさんの行動がどういう論理で発生しているのかがわからない。もしAさんの指摘を見たBさんが「Aさんは正しい答えを知らなくて困っている。教えてあげよう」と思ったのなら、致命的に読解力が不足している。

例外として、よく知った人どうしで「正解はこうだよね」と話し合うの場合はあるかもしれない。だが、前後のやりとりで2人は親しくないことが明らかであれば、今度はその勢いで他人に接近していくBさんの距離感はまずくない?という疑問がわく。

結局、Bさんは知っている話題を目にして何か言いたくなってしまったのだろうな、というのが私の見立てだけれど、こんなことでコミュニケーションを取る意思を持たずに話しかけてくる人という評価を受けるのは不名誉なことだろう。

3月29日の日記

時間の見積もりが雑すぎて自分でも困ってしまう。私は、やり方を想像できるものは実際以上に簡単にできると考えるし、想像できないものはとても難しいと考える癖があるようだ。

「困ったら自分で地道にやればいい」ことは何の苦労もないほど簡単だと考え、「知らない専門家の力を借りる必要がある」ルートは恐ろしいほど困難だと考えた結果、素人ができるような作業が泥臭く組み合わさった作業手順を作成しがちなのだ。私はプログラムが書けるから実際にはやらないが、メンタリティとしては数万行あるExcelシートを手作業で色付けするような作業が大好きだ。

ちょっと気を抜くと、たちまちこの癖が顔を出すのでとても困っている。なにしろ本人はそれを簡単だと思っているので、素人の発想が積みあがっていることになかなか気づかないのだ。専門家の助けを借りたり、何らかの標準的なやり方を採用したりする方がずっと良い結果が得られることをいつでもリマインドしておきたい。

3月23日の日記

タスク管理ができるようになりたいのでもう少し考えてみよう。

まず、私に関係する「やるべきこと」は、その性質によってタスクとプロジェクトに分けられる。タスクとは、取るべき具体的な行動が明らかで、状況が許せばいつでも実行できるものをいう。例えば、やるべきことが郵便物を投函するとか、誰かにメールを書くであるとき、これらはタスクである。

プロジェクトとは、取るべき具体的な行動が明らかでなく、それを明らかにするまでは実行できないものをいう。例えば、やるべきことが家族旅行であるとき、これはプロジェクトになる。家族旅行には様々な準備が必要なので、今すぐ旅行に出かけるというのは通常は実行できない。家族旅行を実現するためには、家族の予定を確認したり、宿を予約したり、荷造りをしたりする必要がある。一般に、プロジェクトは複数のタスクに分解できる。

プロジェクトはそのままでは実行が不可能なので、タスク管理の仕組みに流し込むと目詰まりを起こす。例えば、あるフォームを埋めなければならないが、「管理番号」ろいう欄に何を記入すべきか私にはわからないとしよう。この場合、フォームを埋めるという指示は私には実行できず、こうした実行不可能なタスクのようなものが蓄積して手に負えなくなるというのが、よくあるパターンだ。フォームを埋めるのは私にとってプロジェクトであり、最初に着手すべきタスクは「管理番号を担当者に教えてもらう」である。

厄介なのは、フォームに必要な事項はフォームを実際に読んでみないと、場合によっては埋めてみないとわからないことである。すなわち、タスクだと思っていたものが実はプロジェクトだったということがしばしば生じる。タスク管理のための仕組みは、こうした事態に対応できなければならない。

ここまでの話を整理すると、タスクを管理の仕組みには以下の機能が必要である。

  • タスク管理の仕組みにプロジェクトを詰め込まない。
  • 最初はタスクだと思っていたものも、必要に応じてプロジェクトに昇格できなければならない。

3月22日の日記

昨日は一般論を話したので、今日は私の個別事例の話をする。

私はいま、並列に分割されたタスクの処理ができず、これが身の回りで数々の問題を引き起こしている。例えば、ある物品を購入したとして、これに付随して以下のタスクが発生したとする。

  1. 物品の代金の支出処理をする。
  2. 物品を会社の備品として登録する。
  3. 物品を使って必要な仕事を進める。

私はこのうちどれか1つ目についたものを進めると、他の2つを完全にすっぽかす悪癖がある。また、この問題を克服できる方法もわかっていて、誰か他の人間に1、2、3の順で処理しろと指示してもらえれば、私は全ての仕事をなんなくこなす。

このことから、私が問題を抱えているのは、複数のタスクを1つのスレッドに順番に流し込むスケジューラの部分だとわかる。すると、大まかな対応方針は自ずと見えてくる。並列して発生したタスクはすべて書き出してリスト化し順に処理していけばよい。実際に、この方針はある程度上手くいく。

目下問題なのは、書き出すべき並列タスクが発生したときに、自分ではそれに気が付かない場合があることだ。そうとわかれば書き出せるようなことも、私の注意の網にかからないまま記憶からどんどん抜け落ちていくのである。些細なことでも書き出すようにしたこともあったが、些細なタスクが山のように積み上がって本来やるべき仕事が埋もれるというフレーム問題が発生してとん挫した。

それが書き出すべき並列タスクかどうかを一目で判断できないのならば、そこには何らかの訓練が必要だろう。ある程度結果がわかっている事柄を相手にリスト化の訓練をして型を学んだり、イメージトレーニングをしたり、仕事中でもいったん立ち止まってリストを見直しに集中したりすることが有効かもしれない。いずれにしても、作業に集中する状態から定期的に離れて、それとは直接は関係しない練習に集中力を振り向ける必要がありそうだ。

3月21日の日記

社会に求められる言動が取れないというのは、当人にとって大きな試練である。

誰かの言動が適切でないとき、私たちは「あなたはこういう癖があるから気を付けた方がいい」と指摘することがある。本人もそれに心当たりがある場合が多い。しかし「気を付ける」で解決することは稀で、むしろ、その勘所がわからないことの方が多い。

例えば、忘れ物が多い人は、次は忘れ物をしないようにしようと気を付けながら忘れ物を繰り返している場合が多い。それに対して、忘れ物が少ない人は以下のように忘れ物を回避しているかもしれない。

  • 前日に持っていくものを確認する癖がついている。
  • 現地での自分の行動を想像することで、必要なものを見つけ出している。
  • 全ての持ち物を一から点検するのではなく、いつもの持ち物に加えて特別に必要なものは何か?という視点で確認している。

人が忘れ物をしないのは、忘れ物をしないように気を引き締めているからではなく、忘れ物をしないための具体的な行動をとったり、思考をしているからである。しかし、それを知ってもまだ問題の解決はできない。

  • 持ち物を確認するという仕事が大仕事で、対応しきれない。(ある種の人にとって、持ち物の確認、例えば旅の荷造りは1日仕事である)
  • 想像すれば問題を発見できるというのは、それ自体が「できる人」の発想である。(できない人は具体的に想像できない)
  • いつもの持ち物が信頼できない場合がある。(定期券をなくしたり、ペンケースにペンが入っていないことがしばしば起こり、いつもの持ち物だから安心という前提が成り立たない)

多くの場合、できない原因は、注意力の網に問題が引っかからなかったり、問題を起こしやすい行動の癖があったりすることに起因している。これは、スポーツを習得するのに似ていて、初心者は状況を見て何が起こるかを予測できないし、予測ができたとしても反応が間に合わないし、問題の解決にならない無駄な動きをする。

だから、私たちが自らの問題を改善しようとするとき、単に気を引き締めたり、問題を認識するだけでは不十分である。その代わりに、具体的な行動につながる、戦略を見つけなければならない。例えば、スポーツの「型」の練習のように、限定された状況で問題解決のパターンを繰り返す実践は重要である。

3月19日の日記

風邪で鼻炎が続いている。今はだいぶ快復したものの、花粉症の併発もあって鼻の粘膜がボロボロである。集中力を維持できない。

3月14日の日記

今まさに追いつめられている当事者が考える解決策は、当てにならないことがある。私はかつて、追いつめられて「どうすればできる?どんな助けが必要?」と聞かれた際「もう少し時間をもらえれば」と答える大失敗をした。

それが失敗だと言えるのは、その時はすでにメンタルがダメになっていて、たとえ10倍の時間をもらっても仕事が進むことはなく、解決にはつながらなかったからである。そうなることは傍から見ても明らかだっただろう。だが助ける側としても、当人が「時間をくれ」と言っている以上、基本的には希望通りにせざるを得ないから事態は簡単ではない。自立した人間同士の付き合いでは、本人の希望にはそれだけの重さがある。助けてもらうというのは、口を滑らせても事態が解決に向かうほど簡単ではないし、助けてもらい方にも上手い下手がある。

3月13日の日記

寂しい気持ちはある。自分の記録用として。

3月12日の日記

先日、マネージャーとしての役割について悩んでいることを書いた。

この「役割」に目を向け、ふさわさしい行動を選択することは、意識的にやる必要がある。リーダーの役割が割り当てられたのに、あくまでもメンバーの1人という立場から離れられない人がとても多いのは、人が無意識にそういうふるまいをしてしまうからである。リーダーという役をやるだけでも、ふさわしい行動は意識的に選ばなければならない。

3月8日の日記

最近、自分の悩みごとの多くが「マネージャーという役割」から生じているらしいことに、気が付いた。上に立ってメンバーを指揮し、面倒をみる。私もいつかはそういう役割に収まらなければならない生活をしているにも関わらず、これまで、それを明確に意識したことはなかった。そして今、私はなし崩し的にマネージャーのポジションに収まりつつある。

あるときは、苦労して調整を重ねた末に下した決定に「どうしてこんな決定をしたのか」と文句が出て狼狽した。またある時は、仕事を定義し、お膳立てをして、あとは実行するだけという状態まで準備したタスクを渡したところ「指示ばかりしていないで、もっと手伝ってほしい」と言われ、憤ったりもした。

マネージメントされる側はいつだって、自分は指示に従っているだけだと考えるし、自分が手を動かして成し遂げたことこそ仕事の最も重要な部分だと考えている。彼らもいつかはマネージャーという仕事を理解するかもしれないが、それは今ではない。

私は職務上の地位とか、あるいは単に年齢とか性別とかの理由で、マネージャーという役割を演じる立場になってしまった。説明責任を引き受け、文句を言われながらも誰かのお膳立てをすることを学ばなければならないのだろう。しんどいけど。

3月2日の日記

私は、時間が有限であることが直感的に理解できず、これが日常生活の困りごとの1つとなっている。

もちろん、普段は時間を守って生活できるのだけれど、それは意識的にLモード(左脳的な思考)で時間を管理しているからである。私の感覚に近いRモード(右脳的な思考)は時間が有限であることを殆どわかっていない。

具体的にいうと、私は…

  • 毎日1時間くらいはゲームで遊ぶ生活がしたいと思っている。
  • 毎日1時間くらいは読書に充てたいと思っている。
  • 毎日1時間くらいは試験勉強をしたいと思っている。
  • 毎日1時間くらいは趣味の電子工作やプログラミングに取り組みたいと思っている。
  • 毎日1時間くらいはテレビを見て過ごしたいと思っている。
  • 毎日1時間くらいは運動をしたいと思っている。

そして、これが直感的には実現可能な願いだと感じているのである。日々の仕事や家事や睡眠を確保しながら、毎日6時間の余暇を確保するというのは非常に難しい要求で、はっきり言えば今の私の生活では不可能である。だから、実際に特定の1日を取り出してみると、ゲームで遊んだ日は他のことがままならないといったことが日々起きている。

仮に、1日あたり1時間しかこれらのことに時間を割くことができず、全ての要求にまんべんなく取り組むとすれば、私が実際に試験勉強をするのは1か月あたり5時間になる。これでは試験に受からないだろう。だから現実的には、試験勉強を決意するとと、今後数か月はゲームを諦めることは殆どセットなのだ。ところが、私はこのことがどうしても直感的に理解できない。私と親しい人たちは、私が安請け合いしがちな人間だと認識しているかもしれないが、私は自分自身に対しても日々安請け合いを積み上げている。

私の中ではいつも、Lモードが「それは(時間が足りなくて)できない」と言い続け、Rモードが「たぶんできるだろう」と言い続けている。ブレーキを踏み続けるLモードは疲れ果てているし、アクセルを踏み続けるRモードもフラストレーションがたまって大変困っている。

2月24日の日記

私たちが不満を持つのは「期待したことが実現しなかった」からである。

例えば、私は上司から急ぎの仕事を任されたため、他の仕事を止めて超特急でそれを仕上げたとする。私は、上司は感謝するだろうと期待する。しかし、いざ報告に行ってみると、上司は感謝しないばかりかあちこち赤ペンを入れ、私にやり直しを命じたとしたらどうだろう。私は不満を抱き不機嫌にさえなるだろう。

ここに、上司は部下の心情を酌むべきであった、などともっともらしい理屈が加われば、私の不機嫌は上司が原因であるように見える。だが、その見かたは正しくない。原因は、あくまで私は感謝されることを期待し、それが実現しなかったことにある。その点で、私の不満は、缶の中にクッキーが入っていると期待したのに、いざ開けてみるとクッキーがないことに大泣きする子供と原理的に同じである。

期待が実現しないことが不満なのであれば、私はそれにどのように対処できるだろう。期待しない、というわけにもいくまい。そういう粗雑なソリューションは、思春期に済ませておくものだ。私が缶の中身が空っぽだからといって、今さら泣いたりわめいたりしないのは、クッキーがないかもしれないと事前に予期できる程度に知恵を付けたり、クッキーがないことは人生の一大事ではないと知っているからだ。仕事に対する姿勢も基本的にこうあるべきなのだ。私はそれが感謝されないという可能性を予期できる程度に賢く、感謝されないことが人生の一大事ではないことを理解できる程度に冷静であるべきである。

2月21日の日記

抱えてるプロジェクトが15個くらいあって、その全てに、まる3日はかかるタスクが1つ以上存在する状態。なんで普通に生活できているのか自分でもよくわからない。

1月29日の日記

正義は、私たちが物事を判断するためだけでなく、その結果に納得するためにも必要なのだ。正義がなければ、自分にとって不利益のある選択をするときには、いつも何かを我慢しなければならないし、実際にそれが当然だと考える人も少なくない。

1月24日の日記

「片付いている」というのは、物の配置が適切に構造化された状態のことである。片づけの巧拙というのは、殆どは構造化の技量の問題なのだ。

1月23日の日記

身体は必ず衰えるという前提に立つと、物事の感じ方を根拠に価値を判断することの危うさが見えてくる。私をわくわくさせるものや、心地よいものこそ人生で最も大切なのだとしたら、感覚が鈍麻し、身体の不快感が増え続ける人生とどうして向き合えようか。

※その考え自体が、加齢によるもの。

1月22日の日記

世の中には、身の回りのものを選ぶときに、色や形がそろっていて落ち着くことを重視する人と、色や形がたくさんあって楽しいことを重視する人がいる。どちらを採用するかによって選択の傾向が真逆を向いているために、自分と異なる基準を採用する相手の好みを推し量るのは難しいのである。

1月19日の日記

自身が抱える課題を乗り越える第一歩は、私はその課題に対応する「技能」を持っていないとうフレームを設定することである。

1月18日の日記

鉄道の廃止存続に関する議論を傍から見ていると、その採算性と経済効果とを定量的に記述する理論が議論されていないことが気になっている。

鉄道単独でみた営業係数とかはわかる。しかし、そこから一歩踏み込んだ、鉄道を維持するコストと、廃止した時の経済損失のどっちが大きいのか?という議論はほとんどされていないように見えるのだ。

誰も研究していないなんてことはないだろう。不完全であっても、議論の出発点として「何とかモデルに基づけば存続・廃止のボーダーラインはここ」という理屈は示されてほしい。

1月10日の日記

欲こそが苦の原因であると聞いて、私たちは、金をもっと欲しがるような強欲を想像し、確かにあれは良くないものだと考えるかもしれない。あるいは、私はそこまで強欲ではないと考えるかもしれない。

けれども、私が思うに、私たちを最も苦しめている欲はもっとささやかなものだ。例えば「普通でありたい」という考えはその1つである。普通の人は何を持っているかや、普通の人は何を経験するかが気になって頭がいっぱいなのは、金のことで頭がいっぱいなのと本質的に同じ状態なのだ。すなわち、私が持っていないものと、私がこれから失うかもしれないもののことが頭からはなれず、落ち着かないのである。

1月5日の日記

新年、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

今年は生活習慣の改善を意識して、基礎体力をつけていきたい所存。身体的にも精神的にも。私の美意識として、周囲の人に対して余裕のある態度を示したいと強く思っています。