Lambda

2024年の日記

12月30日の日記

星空を見上げていると、目に映る白い点一つひとつが、数十光年離れた巨大な核融合炉が放つ光であることに目がくらむ思いがする。

私たちが星々について理解していることは僅かだけれど、それでも、それが輝く仕組み、近隣の星との相互作用、惑星の有無やその性質について多くのことを理解している。私たちは、星空に浮かぶ白い点一つひとつに、恐るべき複雑さと精巧さを見出すことができる。

12月22日の日記

サーバーを立てて試したいことがあるのだが、OSの設定からネットワークまわりの設定まで細かいところを確認しているとなかなか全体像が見えず、実作業に踏み切れない。

サーバーなんてとりあえず借りて動かしてしまえ、と思うのはおそらく正しい。1か月1000円そこそこのサーバー台をケチって机上検討でごにょごにょ言っているのは馬鹿馬鹿しい。

ただ、確保できる時間が細切れなので、場合によっては半端な設定のまま何日も放置することになってしまい、それは困る。みたいな思いもあってなぁ…。

12月20日の日記

木こりがボロボロの斧でせっせと木を切っているのを見て、人が「斧を研いだ方が良い」と言うのだけれど、木こりは「そんな時間なんかあるものか。私は今日中に1本でも多くの木を切らなければならないのに!」という寓話がある。

斧は持っていなくても、そういうのは日常的にあるものだ。何か面白そうな話が舞い込んだときに「ちょっと半日くらい取り組んでみよう、明日にでも」とは言えない日々が続いていたりはしないだろうか?

12月17日の日記

私が3歳のときにサンタさんからもらったプレゼントの話を母親がしてくれたのだけれど、私はそのプレゼントのことをかすかに覚えていた。当時のわくわくした気持ちとか、その後すぐに使えなくなってしまって残念に思ったこととなんかを、断片的に思い出せる。

最古の記憶を呼び起こしてもらえて嬉しい。

12月15日の日記

自分がどういう気持ちであるかと、自分がどういうメッセージを出しているかは別物なのだけれど、多くの人はこれを別個のものと認識できない。

これは例えば、「私は機嫌が悪いだけで相手と敵対する意図はない」という私の気持ちと「私は相手に対して嫌がらせ(= 敵対行為)をしている」という私が対外的に発しているメッセージの両方を、独立した事実として認識できないということである。

多くの人は、自分がどういう気持ちであるかしか認識していないか、無意識に意図と行動を(論理的に)一致させようとしている。つまり「私に相手と敵対する意図はないことだけが真実だ(実際のふるまいは意識に上っていない)」と考えているか、「私に敵対の意図がないのだから(何らかの理屈によって)これは嫌がらせではない」と考えている。

本当は「思っていることとやっていることが違う」と認識しなければならないのだけれど、そうできる人は少ない。

12月14日の日記

かなり前から、FTPでファイルをアップロードしようとすると通信が途切れる症状があったのだが、ようやっと原因が分かった。

つまり、WindowsのファイアウォールはFTP通信を監視してるんだけど、そのFTPの中身をSSLで暗号化してしまうと中身の監視ができなくなって通信を切ってしまう

12月12日の日記

遊ぶ時間がないと健康を害するものだが、この遊ぶ時間というのは、生活が少し忙しくなって細切れの時間が増えると急速に失われる。遊びのコンテクストをつくるにも一定の時間がかかるので、タスクスイッチが増えると遊ぶ時間がほとんどない。

𝕏をスクロールする時間ならあるのに、新しいソフトを導入して動かしてみる時間はいつまで経っても確保できない、といったことが起きる。

12月11日の日記

ここ半月くらいやるべきことが飽和してたのだが、ようやっと少し減ってきた。試行錯誤から洞察を得るとか、インプットを増やす方向で使っていきたい。

12月10日の日記

最近、寝ている間に子供(2歳)が僕の布団に潜り込んでくるようになった。幸せ。

12月2日の日記

最近、Starfieldで写真を撮って遊んでいる。

シリウス III-a
アンサラム
アガモン A

11月26日の日記

世の中には、不快感を「そういうものだ」と理解し、受け入れるしかないことがたくさんある。

けれども、いくら理性がそう考えたところで、実際にそれを受け入れるのは容易ではない。理性が受け入れようと提案しても、そんなことで私の不快感が消えたりはしないからだ。そうなると、私は「受け入れること」と「我慢すること」の区別がつかない。理性のいう「受け入れなよ」は「大人なんだからそのくらい我慢しなさよ」とほとんど同義に思える。

だが、私には一つ、確かに不快感を受け入れた経験がある。それは、暑さについてである。昔の私は、暑いことがとにかく嫌だった。暑いときは集中して何かに取り組むことなどとてもできなかったし、何もしなくてもしばしば苛立っていた。けれども、大人になった今は、そうではない。私は暑い中でも「今日も暑いっすねー」とか言いながら仕事をするし、暑い日でも楽しく遊ぶこともできる。なぜだろう?

暑さを感じなくなったわけではない。相変わらず暑さは不快である。違うのは、暑さについて諦めて考えずにいられるようになったことである。不快だ不愉快だと暑さに執着して苛立つことをやめたのである。そういう心持を得た今ならば、私は不快な暑さを受け入れたと言える。

そうなってみると確かに、暑いことは「そういうものだと」理解して考えて受け入れるべきである。だって、暑いと言えば涼しくなるわけではないし、それは誰のせいではないし、避けるべき危機でもないのだから。私にできることはないし、考えるだけ無駄なのだ。それは別に私の不快感を否定していないし、私に我慢を強いているわけでもない。ただ単に、私がそれを避けるために、じたばたしないことを決め、すべきことがないことについては考えるのをやめるのが正解だ。

あらゆる不快感について同様の対応ができる方法を見つけたわけではない。けれども、私は確かに暑さを受け入れたし、「そういうものだから受け入れろ」と誰かが指摘するときその意味をより明瞭に理解できるようになった。

11月22日の日記

治りかけの風邪で咳が止まらないので、ゴホナースを試す。効くと良いな。

これ食間に服用する薬なんですよね。普段、漢方薬を飲まないので新鮮。

11月21日の日記

インフルエンザの予防接種を受ける。いつもの通り副反応強めで、打った箇所の痛みと、全身の倦怠感。あと別件で治りかけの風邪の咳が続いている。

11月20日の日記

Meta quest linkがWindows起動時に自動起動するのを止める方法。(ゆさゆさ@𝕏, 2024-10-11

Oculus VR Runtime Serviceというサービスのスタートアップを「手動」にすればよい。デフォルトは自動。

Metaはどうしてこんな迷惑なことしようと思った。

11月16日の日記

学びには、いくつかの種類がある気がしている。

  1. 問題と対処法の組を覚える。
  2. 複数の行動を同時に意識を向けられるよう訓練する。
  3. 考え方の習慣を追加する。

1は、いわゆる普通の勉強。例えば、試験勉強をする人は、こういう問題が出題されたらこう答えればよいという組を覚えようとしている。

2は、運動の練習など。例えば、自転車に乗る練習をする人は、バランスを取ることに集中すると足が自由に動かせないという問題を抱えており、バランスを取る、ペダルをこぐ、ハンドルで方向を変えるという操作に同時に意識を向けられるように訓練をしている。

3は、認知のフレームを追加する場合など。例えば、科学的思考を学ぶ際には、「事実と意見を分ける」という考え方がしばしば指導される。指導をされる人は、そう考える習慣を自身に追加するよう努めている。

こういう、「学びをどう分類し、それはどういう性質を持つか」という形に抽象化された知見をもう少し集めてみたいのだけれど、なんという研究分野なのだろうか。

11月11日の日記

ある技術について、手法Aと手法Bを組み合わせていいとこ取りをしたと銘打つ手法が、ハイブリッド法という名前で登場したときは要注意。大抵の場合、その複雑さが原因で元になった手法よりも使い道に強い制約がかかっている。

ハイブリッド法の登場をきっかけに、手法Aと手法Bが高度に統合される方向に進化する場合もあるから、全てが悪いわけではない。

11月6日の日記

私は視野が狭いので、最近は、技術論を作り込んでは「最終目標は?根回し終わった?業界動向は?」みたいな指摘で叩かれて、全体構想を作り込んでは「こんな計画、実現性あんの?」と詰められる生活をしています。

これは私の知識量が足りないわけでも、上司に悪意があるわけでもなくて、かなり純粋な身体性の訓練の問題のように思える。つまり、スポーツの上達過程と原理的に同じものではないか。剣道で例えると、面を警戒したら胴を取られるし、胴を警戒していたら面に打ち込まれているという状況。「どうしろっていうんだ」と思いながら、状況を都度反省して次の行動にフィードバックすることで上達していく。ぎこちない動きは苦しいけれど、それを怠ったり、恥ずかしく思ったりしていたら上手くできるようにはならんのだと思います。

10月24日の日記

2024年冬の青春18きっぷは、従来とはかなり内容が変わる模様。

  • 従来どおり、普通列車に乗り放題
  • 連続する3日間の券と、連続する5日間の券の2種類を発売
  • 自動改札機対応

特に、連続する3日間ないし5日間は厳しい制約である。従来は、この制約がなかったので、期間内に飛び石で5日間使用することができた。1日あたり3,000円以上、時間にして4時間くらいは乗らないと元が取れないことを考えると、休息の日を挟まずに連続する3日間というのは、苦行である。

もともと、乗車券で12,000円を超えるような距離を、普通列車で移動しようと考える酔狂な人が買っていたのだから、何を今さらという話ではあるが。

10月21日の日記

政治的な思想信条の秘密が守られることと、政治的な発言をタブー視しないことの両立は難しいのよね。

政治的な発言が活発な場では、私は自分の政治的な立場を明らかにしたくありませんと表明すること自体が難しい場合がある。必然的に、それを秘密にしたい人は周囲に話を合わせる形で嘘をつかなければならない。

10月11日の日記

不思議なもんで、以前は寄り道しながら1週間かかった仕事だから、今回改めてやるなら2-3日だな、という見積もりは外れる。今度もちゃんと1週間かかるんだよ。たぶん不思議だと思わずに、それが当然だと思うようにしないといけない。

9月26日の日記

これ食べていい?

自分もアレルギー持ちなので、読んでいて心にしみた。

僕は、子供の頃、外食するときは決まって「いつもの」レストランに連れて行ってもらったことが思い出に残っている。他の店にはほとんど行ったことがなかった。

子ども心に、お父さん、お母さんはこの店が好きなのだろうと思っていた。それ以上、深くは考えたことがなかったけれど、記事を読んでいて気が付いたよ。「いつもの」レストランは、僕が食べられる料理を出してくれる数少ないレストランだったんだね。

9月21日の日記

スマホの音声入力。ヘイ尻とかオッケーグーグルとかじゃなくて、スマホを耳に当てて喋ったらそのままAIと会話できるようにしてほしい。

9月12日の日記

職業選択の男女比のバランスを取ろうとするならば、進学にあたって好きなこと、得意なことを学べるところに進学しようという段階から手を入れねばならぬように思う。

男子は物や仕組みに興味を持つ傾向があり、女子が人や物語に興味を持つ傾向があるのは避けようがない。一方で、そのような自然の傾向に従うことを当然のように奨励しておきながら、いざ就職先を選ぶ段になったら、特定の分野を学ぶ方が高い給料を得やすいです、というのは当人にとっては罠のようなものではないか。

9月8日の日記

私は、知識や理解などの知的な資産は、それを持たない人に授けたり、助けたりするために使うべきだと思っている。この基準に照らせば、知らない人を笑ったり、蹴落としたり、非難したりするのは誤った知識の使い方ということになる。

私だって「そんなことも知らないの?」という顔をしたこともあれば、「何も知らんお前が何を言う」という態度を取ったこともあるけれど、少なくとも自身の価値観とはあわない改めるべき態度だと思う。「そんなこと」も知らない人と対峙したとすれば、そこでは私は教える側なのであり、その責任を果たしたいのだ。

9月7日の日記

最近、自由主義の価値観を軸に「私が面倒だと感じることはやらなくてもよいこと」というかたちで感情的を肯定する人が、社会生活に行き詰まっているのを見て悲しいなぁと思っている。

自由主義に感情を肯定してもらおうというのは非常に危険で、そんな使い方をするのなら保守主義にでもなって、面倒ごとも「自分の立場上やるべきもの」として淡々とこなす人生の方がまだ無難である。

9月3日の日記

先日、祖母の葬式に行ってきた。10年ほど前から祖父母が鬼籍に入り始め、今回、最後の1人を見送った。火葬場にも慣れてきたなぁ、などと考える余裕があるくらい順調だった。

火葬場を後にするときに、ふと「(事が順番通りに進むならば)私が次にここに来るのは、自分の両親を送るときである」ことに気が付いた。死が一気にこちらへ歩み寄ってきた気がした。

8月22日の日記

初心者向け筋トレ本を読んでいると、「どこを鍛えたいですか?」を読者に問う本が多いのだけれど、初心者が知りたいのはまさに「どこを鍛えるべきか?」であるというミスマッチを感じる。

これは、どこを鍛えたいか想像できるだけの予備知識が欲しいという意味です。私の望みを言い当ててほしいのではない。初心者は、その筋肉が「どんな動作と対応するか」とか「どのように効果を実感できるか」を知らないので、鍛えた後の自分を想像できないところにハードルがある。

これは腕の曲げ伸ばしに使う筋肉で、子供をだっこできる時間が延びます、みたいに言われて初めて「鍛えてみようかな」と思える。パソコンの初心者に、強化したいのはメモリですか?CPUは足りていますか?とか聞いてもピンとこないのと一緒。

8月15日の日記

葬送のフリーレンの1巻をついに読んだのだけれど、読んでいてしみじみするねぇ。 大人になってから、かつて両親に連れて行ってもらった場所を一人で再訪し、変わったもの、変わらないものを拾い集めては感傷に浸る癖のある自分の心に、この作品は刺さる。

8月14日の日記

先日、ひょんなことから気が付いたこと。図表の内容を本文で説明しながら論理を進めていく文章は、読み方を知らないと読めない。読者は、図表のページと本文のページを往復しながら、解説を1つずつ確認していくという手順を知ったうえで、意識的にそれを実行する必要がある。

頭から読んでいくだけで、理解できる文章は小説とか雑誌の記事にいくらでもある。それに比べると、読者が何度も行きつ戻りつして読み解かなければならないような文章は、難解です。だから、読み方を知らないと、難解だから自分にはまだ早いとか、著者が悪いとか理由を付けて拒否してしまう。

僕も、昔は、図表との対応付けが必要な文章は「読みにくい」と感じたし、ある程度読み方を覚えた後も、前から順にページをめくっていくことをやめられず、図表のページにたどり着くまで本文の内容を脳内バッファに溜めておく読み方だったので、文献をきちんと読み込むのが難しかった。

8月3日の日記

最近、歳のせいもあって体力の大切さをじわじわと感じるのだけれど、よく考えると体力って何だろう。

体力のあるなしと言えば、なんとなく、筋力が重要だというイメージを持っている。体力とは、日常生活を超える活動をする余力のことであるとすれば、筋力はまさにその余力である。身体に日常生活を超える負荷をかける訓練である筋トレは、体力を直接的に向上させる活動といえるだろう。

しかし、漠然と感じている体力の衰えのすべてが、筋肉で解決されるものであるかどうかは疑わしい。例えば、極度の緊張や集中をした翌日にも元気でいられるのか?鈍行列車に長時間揺られることを相変わらず楽しめるのか?と考えてみると、それは筋肉の守備範囲ではないような気もする。

筋力によって何が解決されて、何が解決されないのかは明確ではないし、筋トレ以外に何をすべきであるのかも定かではない。

8月2日の日記

判断や行動は完全に合理的であるべきだ、なんて思わないし、言ってもいないんだけど

  • 合理的な判断
  • 無いよりマシなこだわり
  • 毒にも薬にもならない迷信
  • 有害な誤解

の分別はつけるべきです。

いま話題にしているトピックがどのランクなのかという視点を持っていないとしたら、それは問題ですよ。迷信に手加減なしのマジレスをしたり、有害な誤解についての指摘を、私のこだわりだからと跳ね除けたりするのが問題ある言動なわけでして。

7月30日の日記

仕事ができる人たちは、自分が何の目的で何をしているかを言葉にする能力が異様に高いんよな。何がどこまで進んでいるか、いつ聞かれても答えられるし、自分が直面している課題を仲間と共有することができる。

特に、自分が初めて挑むことであっても、言語化と情報共有ができるのが、彼らの優れたところである。彼らは知識を体系化するのが上手い。何か新しいことに挑む際には、理解できない概念や、意図がよくわからない操作にしばしば出くわす。こういうのは、疑問を持った時点で調べていてもきりがないので、ある程度は教科書とか参考資料を信じて進むしかない。けれども、知識の穴を放置したままではトラブったときに何が起きたのか理解できなくなるので、必要な知識をあとから回収して埋めていく必要がある。

凡人がこれを真似をしようとすると、まず突っ走って原因不明のトラブルで立ち往生する。次に反省して、抜けている知識を埋めにかかるのだが、今度は調べものが多すぎて立ち往生する。学ぶというのはかくも難しい。

7月27日の日記

帰省と出張をくっつけて、久々に長めのお出かけしていた。いつもと違うことをするといろいろ思うところがあったのでメモ。

  • 久しぶりに両親と会って話をした。体調の話を聞いたりしていると、もはや彼らが、昔のように、無条件に頼りになる大人ではないのだと自覚させられる。
  • (北海道にある)実家の周りを散歩しては、子どもの頃のことを思い出した。当時、あまりに身近あって気にとめなかった風景が、自分にとって心地の良いものだと思えた。生えている草の種類、家屋や道路の劣化のしかた、空気の温度や湿度がとても自然で心地よい。今住んでいる関東との違い一つ一つが、ずいぶん遠いところに行ってしまったものだと感じられた。
  • 都市の構造や人口密度も心地よい。北海道の都市は現在地がわかりやすく、人通りが多いところを選んで歩くことも、少ないところを選んで歩くことも自在にできるので、自分の気分や考えていることを遮らない。
  • 北海道内を移動しているときは、結婚前に妻と北海道を旅したことを思い出した。隣に妻がいない北海道は少し寂しい。
  • 街を歩けば、子供向けの催しや、キッズスペース、おむつ替え台の場所などが次々に目に入った。子供との生活にもすっかり慣れたなぁ。
  • 仕事は、準備をしてきたことが十分に発揮できて、充実感があった。
  • 大学の同期との食事は、とても楽しかった。お互い、就いている仕事は違えども、同じ専門を学んだ人たちである。彼らと話をしていると世界が活気づいて見えてくる。損得ではない技術論を語れる仲間は良い。
  • 駅に列車を見に行ったりもした。まだ行ったことのない道内各地の行き先を見て、もう少し旅をしたい気持ちがわいた。結婚してからというもの、そういう趣味の自由度が減ってしまい、寂しく思う。一方で、あのとき妻と出会わなければ、自分はいまもこういうのに乗って一人で旅をしているのだとすると、それは私にとって良い面よりは悪い面の方が多いだろう。
  • 今度は、家族で北海道に来たいなぁ。願わくは、この空気を共に楽しみたい。

7月20日の日記

不運に見舞われると、望み通りでないという点にどうしても目が向いてしまう。けれども、今の結果だって考えられるリスクについてさんざん対処してきた結果なんだよね。

実現したリスクの陰に、無数の実現しなかったリスクがある。やるべきことをやってきた成果は出た、という見かたも当然できる。

7月17日の日記

今日は夕方に、視野の真ん中あたりが歪んで見えて、20分くらいの間ものを注視できなかった。左右の目を片方ずつ閉じてみても、見え方が変わらなかったので、目じゃなくて脳の不具合っぽい。あれは何だったんだろ…。

22時現在は、右目の上あたりにうっすら頭痛。それと吐き気。

7月16日の日記

弊職場は自己判断でテレワークができるので、雨の日は出勤者が減る。

自分は、そのように外部要因で予定を変えるのがあまり好きではないので、雨の日でも構わず出社する。思えば、昔からそういう奴だったなぁ。などと思う雨の日。

7月12日の日記

家庭用のエアコンは、メンテナンスフリーにできないのなら、せめてDIYでメンテナンスできるようにしておいてほしいのよ。主要パーツがワンタッチで外せて、風呂場でじゃぶじゃぶ洗える設計のエアコンがあったら、私は欲しい。

7月11日の日記

個人で行う資産運用は、長期保有が最善に近い運用なので、いちいち株価をチェックするのは心を乱す要因にしかならない、という話は理解できる。

では株価のチェックなんて必要ないかというとそんなこともない。株価が気になる程度には経済情勢に興味を持たないと、自分の資産配分が適切なのか、といったことに注意を向けられなくなるんよね。難しい。

7月2日の日記

昨晩は、子供の寝かしつけのお話で「竹取の翁がいつものように竹を取りに行くと」と話し始めたのだが、気づけば7色に光る竹から生まれたゲーミングかぐやが求婚者にアーケード筐体を持ってくるよう要求する話になっていた。

6月21日の日記

息子氏(2)が、首とか腹を触られるときにけらけらと笑うようになった。そうか。「くすぐったい」がわかるようになったか。

6月20日の日記

この頃、祖母が寝たきりで話をすることもできないのだけれど、祖母に会うたびに何を言えばいいのかわからず何も言えない。最近は苦手意識も高まって足が遠のく。

少し内省すると、これは自分の習慣の問題なんですよね。僕は「元気でしたか」とか「最近、新しいお店ができたんですってね」とか問いかけに相手が答えてくれることを前提に置いてしまう。他愛のない会話というやつがそれしか思いつかないの。元気かだって?元気じゃないのは見ればわかるよ。新しい店ができたかどうかも…ばあちゃんは知らないよね。そんなことを考えていたら声に出せることがないというデッドロック。

本当は、相手の返事がないといけない事情なんかないはずなんだ。「今日、飛行機で帰ってきたばかり。お久しぶり。外は暑かった。そういえば、息子は2歳になったんだよ」何でも一方的に話せばいい。きっと喜んで聞いてくれる。

いつから一方的に自分のことを話ことができなくなったのかな。今日は幼稚園で何があった、学校で何があったと話すのが苦痛だったわけでもないのに、いつのころからかそういう一方通行の会話を組み立てることができなくなってしまった。きっとこの先は、また一方的に話しかける相手も増えるような気がする。練習しないとなぁ。

6月19日の日記

ラグビー部出身者。体力と頭の回転のバランスが取れた人が多い気がするんだよなぁ。傍から見てるとあんまり脳に良さそうなスポーツに見えんのだが。

6月12日の日記

現実的な解のなかで最善をつくして、ダメならしょうがない、という理解をするしかない。

力づくででも言うことを聞かせればよかったと事後評価するのは簡単かもしれないけれど、事が起こる前に相手に何かを強制するという解は、ほとんどの場合に現実的な解ではないのだから。

6月9日の日記

自分がメンタルを壊したときにやってしまった間違いに“やりたくない”ことを“やりたい”と言い続けてしまうというのがある。かなり痛い目を見たので、ここにも書いておこうと思います。普通に聞いたら、どうして真意と真逆のことを言うの?って思いますね。以下のような事が起こりました。

  • 率先して自分の“やるべき”ことをしようという意識があった。
  • 良い子、できる子でいるための処世術として“やるべき”ことを、率先して「“やりたい”です、やらせてください」と言う癖がついていた。
  • 取り組んでみると上手くいかず、徐々に“やりたくない”気持ちになった。
  • 既に“やるべき”と“やりたい”を言い換えて表現することが癖になっているので、相談に乗ってくれる人に対して「“やりたい”けれど上手くいかない」と相談してしまう。(本当はすでに“やりたくない”気持ちになっている)

これを言うと何が起こるか。相談相手は私の“やりたい”という言葉を信じてアドバイスをくれます。もちろん、私は“やりたくない”ので手が動かない。その結果、相談相手を失望させて、口先では“やりたい”と言うのに結局やらない奴、という評価を受けます。

さらに怖いのは、自分が意思に反した言葉を使っていることに気づかないでいると、事態がどんどん悪化してくということです。しばらく経って、相談相手から「あの件どう?」と聞かれたときに「あまり進んでいません“やりたい”とは思っているんですが」みたいに同じことを言ってしまうんですよ。“やりたい”と思っています→アドバイスをもらう→できない、というループを回し続けて破滅するというのが、僕のやらかした失敗です。

ならば、どうすればよかったか。「この前受けた仕事は“やりたくなく”なりました」なんて、多少なりとも社会性があったら言えませんよね。それでも、まず、自分はこれは“やりたくない”のだ、と正しく認識すべきだった。わかっていれば“やりたい”という言葉を使わない相談の仕方ができます。「上手くいかなくて悩んでいます」とか。それに、利害関係のない第三者にだったら「上手くいかなくて、できれば“やりたくない”んだ」と言うう機会があるかもしれない。

「やる気を見せる」のは必要なことですが、やり方には気を付けないと、心にもない“やりたい”を言い続けて破滅するという、後で振り返れば信じられないような事態を起こすこともあるというのが、私の得た教訓です。

6月7日の日記

異なるルートから立て続けに「教育を通じて技術を教えることはできるけれど、興味を教えることはできない。だから、学んだ先で何をしたいかを自発的に決められない人を導くのは限界がある」という話を耳にした。この話自体は、教える側の認識としては妥当であろうと思う。

そこまでは良かったのだが、この話を「興味を持てないのなら技術を教わること自体が無駄である」と理解されている方を見かけたりして、誤解を生じやすいロジックの例という別の側面の方に興味が移ってしまった。

「技術は教えられるが、興味は教えられない」という話は、指導に従って得られるのは技術的な上達であると言っているのであって、その点において指導の意義は否定されない。さらに、興味が持てるかについては指導していないだけであって、それ以上のことには言及していないのである。だから、指導を受けた結果として興味を持てるというのも当然あり得るのだ。技術的な上達によって課題解決能力を得た結果、課題を積極的に発見できるようになることなどは、よくある話である。

この話の重要な点は「興味を持てないのなら技術を教わること自体が無駄である」という誤解に反例があるという個別具体の事例ではなく、そもそも当初の主張をそう読むこと自体が論理的な誤読であるということを方だ。つまり、自分が論理的に誤った理解をしたときに、反例を示されないと誤りに気付けないようでは、困るのである。

6月4日の日記

誰かに質問をするときは、正解を求めるのか、意見を求めるのかを意識して使い分ける必要がある。今日は、これを言語化できたので、その話をします。

問いには、相手が正解を知っているものと、相手も正解を知らないものがあります。前者は正解を教えてもらう必要があり、後者は意見を聞く必要がある。

簡単なことのように思えますが、私にはそうではありませんでした。その理由は2つです。1つは、自分の問いが正解を問うべきなのか、意見を求めるべきなのかがわからないことがしばしばあったから。例えば、会社で何かを決める際、誰の決裁が必要かは明確に決まっていますが、どの手続きは上司に口頭で確認し、どの手続きは上司に書類を回さなければならないかを判断できないことが多々あった。

もう1つは、人には深く考えないときのデフォルトの聞き方があるからです。私の場合、「どうすればいいですか?」がデフォルトですが、これは正解を求める聞き方です。そのため、意見を求めるべき場面でも油断するとこの質問が出てしまう。

自分や他の誰かが聞き方を間違えた場面を想像してみてほしいのだけれど、聞き方というのは間違うと大きなペナルティがあるものです。

例えば、正解が決まっている問いに対して意見を求めた場合。部下が「会社に請求書が届いたので、僕がこれから銀行に行って振り込もうと思います。課長はどう思いますか?」と言ったら、課長は「手続きが決まっているのだから考えていないで聞きに来い」と思うでしょう。

また、正解が決まっていない問いに対して正解を求めた場合。部下が「業者AとBのどちらに発注すべきでしょうか?」と聞いたとき、上司が決裁権を持っている場合は別として、その部下が権限を有している場合、上司は「そんなことを私が決めないといけないのか?」と思うでしょう。

「自分で考えろ」と言われて勝手にやったら「なぜ聞きに来なかった」と怒られ、「聞きに来い」と言われて聞きに行ったら「そのくらい自分で決めろ」と怒られるやつ。聞く側からすると非常に怖い話です。この問題に対処する方法が、冒頭の「質問をするときには、正解を問うているのか、意見を求めているのかを意識的に使い分ける」ことなのです。

このことを理解していれば、怯える必要はない。人に聞く前に、これは正解を問うべきなのか、意見を求めるべきなのかを考える習慣をつけるのです。わからなければ「これは決まっていることですか? / 私が決めていいことですか?」と確認すればよい。あるいは、よく考えずにデフォルトの聞き方で聞くのをやめて、適切な問いを意識するようになればよい。

私たちは「問いの適切な聞き方を見極める能力を持つ人」になる必要はないのです。ただ、「2種類の聞き方を使い分けることを意識している人」になればよい。これを知っていると、質問にまつわるトラブルはぐっと減るでしょう。

6月3日の日記

私の目指す、美しいあり方のひとつは「自分が選ばなかった選択肢や、自分には与えられない選択肢について、ニュートラルな心でいる」ことである。

例えば、自分が選ばなかった選択肢の良い面について自分の理解を述べるには、このニュートラルな心が必要だ。私は海外留学をしたことがないから、海外留学にはこんないい面があるという話をするのは、私にとって簡単ではない。ここで言う良い面について話すというのは、単に海外留学は羨ましいと話すことではなく、私は海外留学経験がある人をこのような面で高く評価すると話すことである。

私は、友人たちと海外留学について話すとき、心にもない誉め言葉を並べたいのではない。彼らに留学について教えてもらったり、留学についての自分の考えを表明することに後ろめたさを感じないでいたいのだ。海外留学の良い面について話し合うことは、単にそれを理解しているのであって、選ばなかった自分を貶しているわけではないと、分別をつけたいのである。

今のところ、そういう理想の態度を表明するようにはしているが、心が動揺するのであまり美しくはない。

5月30日の日記

LLMを活用しようとすると、自分の抱えている問題を文章化する必要があるので、すごく疲れるんよな。キーボードを打つ手が疲れる。それでもLLMに聞く方が十分に速いからもうこれに慣れていくしかない。

5月26日の日記

人に欠点があること自体は致命的ではないけれど、それを人間関係の中に埋め込む方策を決めていないことは致命的になりうる。どんな些細な欠点であろうと「ひた隠しにする」と「大の字になる」の2択で押し切るのは無理がある。

個人的な経験でいえば、これには自分と似た欠点を持つ人のふるまいを真似る「欠点のロールモデル」を意識するのが有効。

5月25日の日記

息子氏(2)。最近、父が自分の思い通りに動くと「よくできたねー」と言って褒めてくれる。

5月24日の日記

話を曲解して怒り狂われる経験をすると本当に嫌な気持ちになる。「Aは、一般にはBと言われているが、正しくはC」という話をすると何人かは必ず「AはBだ」と理解するという冗談みたいな本当の話があるのだ。「AはBなんですね!」というピュアな間違い方ではなくて、「AをBだなどと馬鹿げたことを言う奴の話が信用できるか!」と怒り狂う人がいるんだよ。

けれども、論理がわからないのは相手が悪いのかと言われるとそれも違う気がする。そもそも、全員に正しく伝わる言葉など存在せず、理解には個人差があるからだ。そして、その理解とは、歩きが遅いとか、目が悪いのと同じような身体の性質のではないのか。僕らはたまたま出会った人の歩きが遅くても、目が悪くてもそれを本人が悪いとは言わない。ならば、論理に関してだけ「わからないやつが悪い」と言うことに正当性があるだろうか。

話を曲解して怒り狂うことに関して言えば、わからないことは了解しても、誤った理解で怒り狂うのはやはり許容できないという気持ちはある。だが「わからないなら黙ってろ」と言う道理もない以上、通じなかったんだなぁ、とぼやいで終わるしかないのだろうかと考える次第。

5月23日の日記

このサイトの今日の一言コーナーに

カナヅチが必死でもがいている横を、プロはひとかきで先へ進む。(春日悠)

が出た。技術力で勝敗が決まる状況を端的に表していて、好きな言葉である。

まず、何らかの成果において勝敗がつくとき、それは技術の差であって頑張りの差ではない。カナヅチがプロに追い越されるのは、彼が頑張ってもがかなかったからではない。だが同時に、カナヅチがプロのように泳ぎたいと思うなら、技術を習得するのが唯一の道なのだ。その点において彼が練習を頑張ることには意味がある。

技術力で成果が決まる物事というのはそういうものだ。今日の成果が出ないのは必死にもがく頑張りが足りなかったせいではないし、成果を上げたければ技術の習得を頑張らねばならない。

5月20日の日記

言葉を言葉通りに受け取らないというのはしばしば問題を引き起こすが、言葉を言葉通りにしか受け取らないというのも同じくらい問題を引き起こしている。

やや抽象的にいえば、事実に基づいて行動すべき時に理解に基づいて行動することは問題であり、理解に基づいて行動すべきときに事実に基づいて行動することも問題なのである。

5月15日の日記

息子氏(2)。最近、少し発達したのか、思い出し笑いをするようになった。こういう変化を見ていると楽しいな。

5月12日の日記

太陽光が当たっている時間だけ動く機械があって、動いている間は1秒ごとにログを吐き出す。長期間収集したログを分析するにあたり、ログを全て1個のテーブルで持つべきか、電源が落ちる度にテーブルを新しくすべきか悩む。

基本的には1個のテーブルで持つ方が便利なんだけど、前の数値との差分を取る操作とかをするときに、電源が落ちた期間をまたいだ演算をしないようにする処理が面倒。テーブルを分けても、先頭と末尾に例外処理は入るので、手間は変わらないのかもしれないけれど、分けた方が認知負荷は少し軽い気がする。

5月11日の日記

風が強い日に外出するのは疲れるから嫌と考える人がいるらしく、その感覚がよくわからなかった。こういう人と話していると、自分は風を浴びるのが好きな人間だということに気づかされるな。岬に行って強風に吹かれているときとか、心地よくて好きなんだ。

5月9日の日記

最近気付いたんだけど、困ったときに「困ったなぁ」と言葉にすると少し客観的になれて精神的に楽です。けれども、他人事みたいに言ってるところを誰かに聞かれるとまずい状況もある。そこで、追加のライフハックなんだけど「困ったなぁ」は発音せずに遠くを見ながら心の中で思うだけでも結構効きます。

5月8日の日記

予測の特徴量設計に関して調べていたら「これで有意な改善があるはず!という直感は大抵有害なので無視して淡々と検証しなさい」と書いてあったのが心に刺さった。

HJvanVeen. Feature Engineering. slideshare.

5月7日の日記

私は、知識や理解などの知的な資産は、それを持たない人に授けたり、助けたりするために使うべきだと思っている。この基準に照らせば、知らない人を笑ったり、蹴落としたり、非難したりするのは誤った知識の使い方ということになる。

私だって「そんなことも知らないの?」という顔をしたこともあれば、「何も知らんお前が何を言う」という態度を取ったこともあるけれど、少なくとも自身の価値観とはあわない改めるべき態度だと思う。「そんなこと」も知らない人と対峙したとすれば、そこでは私は教える側なのであり、その責任を果たしたいのだ。

5月4日の日記

某3DCGソフトで有名なメタセコイア。ようやっと実物を見ることができた。日本にも各地に存在するらしいけれど、縁がなくて見たことがなかったの。背が高く、樹形も色も綺麗な美しい木。

メタセコイア

4月30日の日記

高精度化された拡張手法より、シンプルで古典的な手法の方が実測と合う計算結果が出てちょっと困っている。現時点では古典手法で十分でも、このあと調べたい現象は拡張手法じゃないと表現できないので。

4月28日の日記

演じることの効能は大きく2つある。

一つは、日常の所作に正解が与えられることで、ふるまいに自信がつく。これは、自分の所作に「あの人の真似である」とか「本で読んだ」といった具体的な参照点ができて、自己流ではなくなるためである。人は、自己流を人様の前で披露するという状況にストレスを感じるものなので、自己流の所作は少ない方が楽である。

もう一つは、演じる元となったお手本も完璧ではないと理解できることである。何かを真似るために観察するようになると、その手段の全く非効率な面を発見したり、その人が答えに窮する指摘を受ける場面を目撃するようになる。このような場面は、真似をするつもりで深く観察をしないと気が付かないものである。お手本の完璧ではない面を知ることは「お手本通りでなければ失敗だ」のような、誤った理解を正してくれる。また自身が全く非効率な対処を強いられたり、答えに窮する指摘を受けた時の、少なくとも、心の準備ができるようになるだろう。

4月27日の日記

それを知る前の自分に、演じているという説明をしても、つまり虚勢を張るとか、社会的な正しさに従うという意味ですね、など否定的な印象を持つだろうと思う。

けれども、実際には、それは自由を後押しする効果がある。日常にお手本を取り込むことを通じて、意識的にできる所作が増える効果は大きい。ここは上手く言語化できないのだけれど。

4月25日の日記

自分のキャラクターを意識して、それを意識的に演じることの効能を整理して文章化したいのだけれど、できずにいる。

私は、意識的に自分にキャラクターを付与して、演じるようになったのが大学生も終盤になってからなので、それをする前とした後の景色の違いを明確に経験することができた。自発的に演じることによって初めて自由意思によって社会的役割を担うことができるようになったという感覚がある。

4月24日の日記

星空観賞用のめがねを作る夢を見た。夢の中では無限遠の物体を見るのに適した度数とか、桿体細胞に対応した帯域の透過率が高いレンズとかを選んでいたのだがけれど、そんなめがねは現実にあり得るものなのかしら?

4月23日の日記

画像の読み込みが途中で止まるアクシデントがあって、写真をコサイン基底で近似していることがよくわかる絵を見てしまった。

1枚目のが読み込みが途中で止まった絵。2枚目が最後まで読み込んだ絵。途中で止まった方は遠目に見ると元の写真の粗い近似だが、その1個のタイルを見ると1次のコサイン関数になっている。

1枚目 読み込みが途中で止まった絵
2枚目 最後まで読み込んだ絵

元ポストはこれ→@jresio_PR 2024-04-16

4月21日の日記

ネットワークスペシャリスト試験でした。勘違いをして変な回答をしている可能性はあるけれど、手ごたえはまずまず。𝕏で感想を眺めても今年は難易度低めだった模様。アドレス空間とかルーティングの設計が重そうな問題を避けるようにしていたら、セキュリティ系の問題を渡って最後まで行けるルートがあったため、答えやすかった。

本日の山場は午前IIでPCI Expressの3.0と4.0を5.0の共通点について聞かれて「知るかそんなもん!」って鉛筆を投げそうになったところ。ネットワークエンジニアたるもの使用しているNICのPCIのバージョンに無知であってはならぬというお考えの方が問題を作っていらっしゃる?

4月18日の日記

技術的なことに関するセンスがなく、しばしば問題解決にならないアイディアを口にするのだけれど、その問題と(不完全な)解決のアイディアを持ってしかるべき人に相談に行くという動きが完璧にできるので、広い意味で問題解決能力があるという評判を得て偉くなった人がいる。

20年以上若い自分が聞いても「何言ってんの?」みたいな話を持ってくるんだけど、「そのアイディアはこういう理由でダメ。セオリーはこう」ってアドバイスを返すとそのまま解決してしまうので強い。

こういう人は権力を得れば得るほど「なるほど、そう考えるのね。ちょっと検討書にまとめてくれる?」とか言って他人を使えるようになるので、年々問題解決能力が伸びているように見える。

4月16日の日記

為替相場が上がったとか下がったとかの感想を市民に聞いて、海外旅行に行きやすくなるとかのコメントを引き出すやつがどうにも納得いかない。為替相場が数%動いて旅行代金が変わったって、気にしたりしないでしょ。

これが海外との取引で商売をするという文脈になると、為替相場は利益率の変動要因となり、シビアな問題を起こす。数%の変動が利益をごっそり持っていくのなら、ただごとではない。

けれども、ビジネスにおける為替相場を論じても大多数は自分のことだと思ってくれない。そこで、為替相場を身近に感じてもらうために知恵を絞った結果、海外旅行の話が出てくるのだろう。

だが知恵を絞ったにしては結果が微妙だ。やっぱり真面目にビジネスに与える影響を論じた方が良いのではという気もする。

4月15日の日記

この前珍しく子供が長めに夜泣きしたから、なんかアップデートがあるんか?と思ったら、翌日いきなり初めて空になった皿を指して「無い〜」、お茶の入ったコップを指して「有った〜」と言い出したので、どうやら有と無の概念を獲得して言語化できるようになったっぽい。

「普段と違う夜泣き=アップデート」は育児界隈でよく見る話で私が言ったわけではないです。引リプを見させてもらったら発熱後にアップデートするのもあるあるらしいですが、今日の娘はコロナ回復中で爆裂にアップデートしてます。育児おもしれ〜

𝕏 @tako_0 4月6日

読んでいたらうちの子にも心当たりがあった。夜中に突然泣き出した翌日から、以前の倍くらいの長文を話し始めたことが。あれは、脳の配線が突然修正された違和感で泣いてるのん?

4月14日の日記

思想って難しいなぁとぼんやり考えていた。

インターネットの争いを見ていると、ベースとして自由主義の論理を用いながら、自分の都合の良いところだけは保守主義の価値を採用するような、自分に都合がよいだけの論理をしばしば見る。

当然、そんな論理は隙だらけで、理解も共感もしようがない。自由主義なら自由主義で一貫した話を持ってきてもらわないと困るのだ。けれども、突き詰めて極左ならがよいのかと問われるとそれも違う。極右とか極左ではなくて、中道がよい。

自由主義思想に保守主義を混ぜた冒頭の話がまずかったのは、自分の都合でいいとこどりをしたからだというのが一応の回答である。だが、真に客観的な基準で左右の思想をミックスできるものだろうか。

できないからもめるのだろうな。自分の知識ではついていけない話も多々あれど、簡単ではないのは傍から見てもわかる。

4月12日の日記

上空から佐田岬半島を見た。実物を見ると「本当に地図の通りの形なんだ」という気持ちが湧いてくる印象的な光景。

4月10日の日記

航空券を予約すると、前日にオンラインチェックインをしろという連絡が来るからやるのだけれど、何の手続きなのか実はよくわかっていない。

チェックインしたからといって、キャンセルできなくなったり、着席が確約されたりするわけではないようだ。従来のように、空港に着いてからチェックインするのなら、搭乗の意思をもって空港に到着している事実を確認できるだろう。

前日にオンラインで行うチェックインも何かの確認であろうか。これでは、前日までは生きていた事実くらいしか確認できないと思うのだが。もちろん、予約したのが何か月も前だと、そのまま連絡がつかなくなる人が少なくない割合で出るだろうから、実際に生存確認をしたいのかもしれない。

問題は、これは全て私の想像であって、そういうつもりで対応してよいものなのか確信が持てないということである。

4月9日の日記

心電図取ったら通常より大きな電位差が出ているらしい。お医者さま曰く、脂肪や骨の層が薄く、心臓が電極に近いと電位が大きく出るだけで病気ではないとのこと。理屈はわかるけど考えたこともなかったな。

4月7日の日記

私がATMで1万円とか2万円単位でお金を引き出すのは、千円札をたくさんほしいからです。一万円札は日常生活では使いにくすぎる。全部千円札で吐き出してくれるなら、10万円くらいまとめて引き出したって構わないから、ATM氏には千円札をもっと出していただきたい。

4月6日の日記

TLSの仕組みを掘り下げられるとなんもわからん。電子証明書のフィールド名とかまで知っておく必要あるのか。

4月5日の日記

今日のまなび。IPsec-VPNとSSL-VPN。

VPNの構成方法。どちらもTLSを用いて通信を暗号化する。IPsec-VPNはネットワーク層のプロトコルであり、IPそのものを暗号化するという発想。一方で、SSL-VPNはセッション層のプロトコルであり、ブラウザを経由して暗号化通信をするという発想。ただし、SSL-VPNには専用のソフトウェアを使って仮想NICをつくり、IPパケットを直接送受信する技があるので、Webアプリケーション専用というわけではない。

4月4日の日記

今日のまなび。DNSについて。

DNSにAレコードを複数書くと、ラウンドロビンによって接続先のが振り分けられる。例えば、アドレス1とアドレス2という2つのAレコードを書くと、2つのアドレスに均等に通信を振り分ける。

さらに、Aレコードは重複するレコードがあってもよい。例えば、アドレス1、アドレス1、アドレス2という3つのAレコードを書くと、アドレス1とアドレス2に2:1の割合で通信を振り分ける。

4月3日の日記

個別の事象は成功や失敗が偶然に左右されることが多々あるので、1度や2度の挑戦で何かを判断しようとすると結果が安定しないものです。長期的に考えるなら試行回数を増やすことが大事。前提として(1) 期待値がプラスである、(2) 失敗しても再挑戦のチャンスがある、限りは試行回数は多い方が良い。

簡単に言えば、1回ダメなら諦めるつもりでやるよりも、成功するまで何度でもやるつもりでいる方が長期的には強い。

ぼんやりと「子どもには試行回数の価値を教えたいなぁ」って考えていたのだけれど、その時の自分はちょうど試みが理不尽な結果に終わって「こんなこと二度ととするものか」っていじけていたところだったんだよね。そのとき、こういういじけ方をするなという戒めじゃないかと気が付いてしまって、自分の悩みが可笑しく思えてしまったの。

4月2日の日記

体調がようやっと戻ってきた。相変わらず胸は痛い。

今日は良いことが二つ。一つは、自分の将来のあるべき姿を確認したこと。もう一つは、自分が過去に下した決定を肯定できたこと。

4月1日の日記

本日もストレス反応で体調が地を這う。胸の痛み、痺れに似た倦怠感、胃のあたりの不快感。取り付く島もなく、要相談な感。

3月31日の日記

土日は休めておらず、しんどみ。抑うつ、頭痛、胸の痛み。

3月28日の日記

一昨日話した、主観的な参照点を持たない人は、私から見ると言葉の意味がコロコロ変わる「気分屋」に見える。

言葉に参照点があると「(普段なら5分待たされるくらいは遅いとは言わないんだけど、今日の私は急いでいるから)遅いなぁ」みたいな評価が心の中で常時行われるのに比べると、遅いと感じたという感覚をダイレクトに「遅いなぁ」と言うのでは表現の粗っぽさとか、自制心の効き具合が違ってくるのだと思う。

3月26日の日記

自分以外の人の言葉の使い方をみていて、自分がその言葉をどういう意味で用いるかという主観的な参照点を持っていない人がいるのではないか?と思ったりした。

これは形容詞なんかで特に重要なのだけれど、例えば、「暑い」という言葉を使うときには「私は30℃以上の気温を暑いと表現します」みたいに言葉と対応する具体的な状況(参照点)が私にはある。もちろん、明確に言葉として30℃と定義して使っているわけではないけれど、言葉から想起される一定した具体的な状況がある。

もちろん、私が暑いと感じる主観的な感覚は、気温以外の影響を受けている。そのような場合でも「(私の目安である30℃から比べると気温は低いのだけれど、今日の私は厚着なので)暑いですね」みたいに内部で参照点からの距離を意識して喋っている。

私にとっては言葉には参照点があるのが自然なことなので、誰かと対話をするときには、相手の言葉にも当然それがあると考えている。このとき参照点は人それぞれなので、25℃を超えたら暑いだろうという人もいるかもしれない。けれども25℃に参照点を持つ人は、いつも25℃以上を暑いと表現するという、恒常性を期待している。

相手が「暑いなぁ」と言うとき、私はしばしば「(あなたの参照点から見ればまだ暑いほどの気温じゃないですよね。もしかして)いつもより厚着ですか?」みたいな返し方をするのだけれど、相手によってはこの返しはかみ合わない。そんなときに、この人にとっては「暑い」という言葉に「私が暑いと感じた」以上の意味はないのではないか、と考えたのが冒頭の思い付きである。

「私が暑いと感じた」以上の意味はないとしたら、そこに理由を付けられたり、普段との違いに着目されるのは、まるで自分の感覚が疑われているような感じがするのかもしれない。

3月24日の日記

何らかの問題に対処するときには、原則として文献をあたって解決するべきである。言い換えると、自力の試行錯誤はできるだけやりたくない。だが実際には、自分で手を動かして問題そのものを理解しないと、文献の情報を利用できない場合が多いから、結局は試行錯誤が必要である。

そう考えると、試行錯誤というのは問題を解決するためではなく、問題を理解するために行うべきものと思えてくる。試行錯誤をするときには「どの程度問題の解決に近づいたか」よりも「どの程度問題を理解できたか」を自問するのがよいかもしれない。

3月23日の日記

ウィスキーの余市を探しているのだが、売ってないなぁ。定価の倍くらいで売っているところは見つけたのだけれど、プレミアム価格を付ける店と取引した経験がないのでちょっと様子見。きちんと品質管理された商品を商っているところと、管理せずに商品を横流しする業者との見分け方がわからないので。

品薄とはいえコンスタントに供給はある商品のようなので、普通の小売店でもう少し探してみる。

3月20日の日記

休日だけれど今日はお仕事。実験で取得したデータを分析していた。これが結構な量のデータで、グラフにプロットするにも5分とか10分待たされる。実質的な作業の密度は高くないのだが、拘束時間は非常に長い。

誰がやっても時間がかかることに違いはなく、時間かけてプロットして吟味しましたというだけでも十分価値は出る。というわけで、時間をかけるべき仕事だと割り切ってお茶をすすりながらやる。

3月19日の日記

時間を区切って時間内で出せる最善の成果を出そうとするのは良いことで、実際に非常に良い出力が出る。だが、自分のすることに確信が持てるまで考えた場合と比べると、充実感はいま一つである。

3月17日の日記

タスク管理があまりに苦手なので、まず、タスクをいくつかに分類してみることにした。勝手に考えるより何らかのフレームワークを参考にした方が良い気もするがとりあえず。

まずタスクは、受動タスクと能動タスクに分けられそうである。受動タスクとは、タスクが完了した状態について関係者間で共通認識があるタスクである。例えば、書類をルールに則って処理するタスクがそうである。求められる品質が定まっている、その仕事にどれだけ労力をかけるべきかは本人の意思とは関係なく受動的に決まることから、受動タスクと呼ぶことにした。

一方で、能動タスクとは、スクが完了した状態についての共通認識がなく、完了するには関係者を納得させる必要がある仕事である。例えば、調査を行ってそれに基づく提案を行うタスクがそうである。求められる品質が定まっておらず、その仕事にどれだけ労力をかけるべきかを本人が能動的に決める必要があることから、受動タスクと呼ぶことにした。

自分に対する客観的評価なり、業績なりがどちらのタスクから生まれるのかによってタスク管理の戦略はかなり異なる。受動タスクを抜けもれなく確実に実行することで評価される人にとって、能動タスクはあくまでも加点要素である。一方で、能動タスクの質で評価される人にとって、受動タスクはどちらかと言うと減点要素である。

私は明らかに能動タスクで評価される仕事についているので、基本的には能動タスクにかける時間を最大化しなければならない。だが、書類を出さないとかルールを間違えると受動タスクでミスをすると評価の足を引っ張るので、ミスをしない範囲で受動タスクに時間をかけないのが正解である。

3月16日の日記

仕事がひと段落して、久しぶりに仕事のことを考えないでいられる週末を迎えたところで、家族からも1日暇をもらうこととなった。こんなに自分のことだけを考えられる時間は久しぶりで、とてもありがたい。

3月14日の日記

JRは近年、みどりの窓口を廃止してキャッシュレス化や切符のオンライン販売に力を入れている。だが、窓口でしか買えない切符があったり、そもそも複数枚にわたる切符を一人で計画できる客が少なかったりして、少ない窓口は混雑しているようだ。

これは、DXでよくある「紙ベースの既存フローにあうデジタルシステムをつくるのではなく、デジタルシステムで処理しやすいように既存フローを作り替えろ」案件に見える。具体的にどうすればよいかについて、あまり思慮の浅いことは言えない。中の人も当然検討したうえで、落としどころを見つからないくらいには複雑な問題であることは想像に難くない。

3月13日の日記

いろいろ残ってはいるが、山は超えた感。

3月9日の日記

学会大会の連番の口頭発表で、その1、その2のタイトルの書式が微妙に違うやつ。見ていて落ち着かないので避けてほしい。「その1」(1は全角)、「その2」(2は半角)とか。

3月7日の日記

高い日本酒は雑味が少なく、角が取れた味がするのがようやっとわかった。好き嫌いとは別の、なんか高そうという感触を理解したぞ。

同じ酒蔵の安い酒と高い酒を並べても味が似てるから却ってわからないこともある。今回のは味が好きなのは安い方だが、雑味がないのは高い方というコントラストがわかりやすいパターンだった。

3月6日の日記

とても久しぶりに母校に顔を出す。先生や同窓生とのご縁があると心強いなぁという感想。

2月29日の日記

他の人が作成した原稿の体裁を整える仕事って大変なんだよね。

文章の意味を変えない体裁の修正は、簡単で誰でもできる作業と思われることが多く、評価の対象になりにくい。そのわりに、修正時に誤って意味を変えてしまったり、原稿作成者の意図と違う修正を入れてしまうと、あとで問題になる。

加点要素が少なく減点要素が多い仕事は、作業者の心理的負担が大きい。

2月28日の日記

仕事ができるという意味で頭のいい人は、few-shotから学ぶ学習能力がやたらと高い。誰かがやっているのを2、3例見ただけで塩梅をつかんで、やりすぎとか、やらなすぎを殆ど出さずに仕事をこなす。

人当たりが良い、悪い、真面目、不真面目など性格は様々だけれど、とにかく人がやっているのをみていつの間にか学んでいる。あの学習はどうやるんだろね。

2月27日の日記

ある物事について、具体的な目標を定めるにはどうすればよいだろうか。私は何がしたいのか?という問いに答えるのは簡単ではない。

例えば、プログラミングの初心者に「どのようなプログラムを書きたいか?」と問うても、業務を支援するシステムを作りたいとか言うばかりで、具体的な仕様を説明できる初心者はまずいない。

一方で、一定以上の技能を持つ経験者は、解決したい問題から、入力と出力と大まかなロジックを頭に思い浮かべることができる。細部の設計をすれば、様々な問題が出てくるのだが、逆に言えば問題点を指摘できる程度には具体的なイメージがある。初心者の発想は地に足がついておらず、経験者の発想は地に足がついていのだ。

私たちが、新たな分野で地に足が付いた発想ができるようになるにはどうすればよいのだろうか。地に足の着いた発想ができないというのは、そもそも解決したい課題を特定できないという意味で、解決手段を知らないことよりもずっと深刻である。問題の解き方がわからないよりも、問題文が何を聞いているのかわからない状態に近い。

私にはいま「文章が書けない」という悩みがあるのだけれど、直面しているのはまさにこの問題なのだ。というのも、ほとんどの文章術は次のように教えるからだ。まず主張したいことがあって、それを補強する根拠を整理する…。なるほど言っていることはわかる。私にとって問題なのは「主張したいこと」とは何なのか?ということだ。

何を主張したいですか?という問いに対する答えが見えず、だから文章全体が宙に浮く。誰かの助言を受けようにも、言いたいことが定かでない文章に助言をするのは難しい。

言いたいことがないのなら、何も言う必要はないのか。違う。誰にだって言いたいことや言うべきことはたくさんある。ただそれをすくい上げられないだけなのだ。具体的に書きたいプログラムが思いつけなくても、プログラムで解決すべき問題を抱えている場合があるのと同じだ。

だからこそ、私の言いたいことをすくい上げられるようになりたいのだけれど、さて具体的な言いたいことを特定するために、私は何を訓練すればよいというのだろうか。

2月25日の日記

今日中には完成しないものを、時間で区切って終了すること。そして、後日きちんと再開することは重要。訓練して、できるようにせねばならない。

2月24日の日記

会社の施設にはIDカードや鍵を持っていないと出入りできない扉がたくさんある。部屋に人が閉じ込められないように、扉は原則として部屋を出る方向へは鍵を要求しないように設計されている…はずなんだけど本当か?と不安になることがある。

だって普通の建築は、デバッガーが壁に体当たりしたり、正規で想定していない経路で動き回ってスタックしないかとかチェックしてないじゃん?私はしばしば鍵をどこかに置き忘れるので、何かの間違いで閉じ込められることがないか心配なんだよ。

2月23日の日記

散髪に出かけたら、普段は芸能人の話ばかりしている床屋が日経平均がどうのとかNISAがどうのという話をしている。世間に楽観的な空気が漂っているのを感じるね。

これで直後に暴落などすれば、ウォール街の靴磨きの少年みたいな話になるのかもしれない。

2月21日の日記

仕様なのかわからないけれど、Windows 11ってクリックしたのにクリックされていない挙動が多くないですか?

最近のOfficeでは、アクティブでないウィンドウをクリックしたときは、そのウィンドウをアクティブに切り替える動作だけを行い、ウィンドウ内にクリックイベントを送らない動作をしますが、それに近い感触。特定の条件下で、クリックイベントが発生しないことがある。

2月19日の日記

今日も、最も守られるべき人を守ることができなかったことに、無念で心がいっぱいである。私が責任を負うべきことである。謝っても謝りきれない。

2月18日の日記

頭痛がしてもうダメな感じ。

2月17日の日記

他人への期待は、合理的に期待できる範囲に留めることが望ましい。そのうえで、合理的に期待できる範囲を広げる努力を怠ってはならない。

2月16日の日記

SCSIというと、初めて買ったCD-RドライブがSCSI接続だったのを思い出す。すっかり途絶えた技術かと思いきや、iSCSIとかFCoEとかで現役で使われてる規格なの!?というのが今日の学び。

2月15日の日記

父は自分の仕事についてあまり話さない人だった。僕は父の仕事がもっと知りたかった。僕の幼少期に、お父さんの仕事について質問したり、専門的なことを教えてもらったりする体験がなかったことは、今でも残念に思っている。

だから、子供にはめいっぱい仕事について話してあげようと思ったが、いざその立場になるとどう話を切出せばいいのかわからない。専門的な話を楽しく話すのは簡単ではなくて、意識的にやらないとできないんだとようやく気付いたよ。だってさ、地盤工学の……楽しい……話???

2月14日の日記

素朴な自由主義は魅力的な教えのようには思える。自立した個人が、自由意思に基づいて行動する。自由主義は、私たちに、やりたいと思うことやればいいし、やりたくないと思うことをやる必要はないと教えてくれる。

一つ気にしなければならないのは、その自立した個人というのは、自分と同じ程度の教養を持ち、自分と同じ程度に健康で、自分と同じ感覚を共有できるような、ひどく限定された相手ではないかということだ。そんな人たちと、対話によって利害を調整するのは素晴らしい体験だろう。私も含めて、自由主義のすばらしさを感じるときというのは、そのような素朴な意味における「自立した個人」に囲まれているときである。

問題はなのは、私たちがそのような意味における「自立した個人」でいるのは普通にあることではないし、私たちは自分が感じるよりもずっと自由ではないということである。

2月12日の日記

私が昔いたネットゲームの中では、適用/適応、累積/蓄積のような同音異義語ではないが語感が似た単語の誤用が著しく多かった。あれは当時(2000年代)のインターネットのなかでも特異な空間だったように思う。

インターネット普及期にネットゲームに流入した人のいくらかは、日常生活では会話が中心で、文字によるコミュニケーションにそもそも不慣れな人たちだったのかもしれない。それに比べると、個人のホームページや掲示板に出入りした人たちは、日常的に文字を読む人が多かったのではないか。

2月9日の日記

ちょっと言語化が上手くいっていないが、ぼんやりと考えたこと。

商品を自分用にカスタマイズしてもらえるサービスを利用するときには、利用者の側にも要望を的確に伝える言語力が求められる。

現在のところ、個別のカスタマイズは一部の高価格帯のサービスが中心で、普及価格帯のサービスとは上手くすみ分けているように見える。普及価格帯では複数の選択肢の中から自分に合ったものを選ぶ方式が主流で、私も選択方式の方が馴染みがある。選択方式は見た目の印象や使用感といった非言語の情報に基づいて商品選びができるため、要望を言語化する必要があまりないのが特徴だ。

将来は、AI言語モデルがこのすみ分けを変化させるかもしれない。AIが御用聞きとなって、高価格帯にしかなかった個別カスタマイズが普及価格帯にも広がってくるのである。そう遠くない将来は、「商品を選ぶセンス」よりも「要望を的確に伝えられる言語力」が求められる時代なのかもしれない。

2月8日の日記

私は仕事で大失敗をしたことがあって、その原因を「私は子どもの仕事をしていた」という言葉で理解している。

仕事には、子どもの仕事と大人の仕事がある。

子どもの仕事というのは、大人が子どもに課すような仕事である。子どもの仕事は、仕事を与えられる側に選択権がなく、達成する責任もないという特徴がある。子どもの仕事の典型は、学校の課題である。

つまり、学生である私には、与えられた課題をこなす以外の選択肢はない。その代わり、その課題を完了できなかったことに対するペナルティは軽い。子どもに求められているのは課題の解決に向けて努力することであり、取り組んだ時点で一定の責任を果たしたとみなされる。私が真面目に取り組んだのに成果を出せず、そのせいで不利益を被るならば、そんな課題を出す方が悪い。

例えば、私が真面目に取り組んだにも関わらず、卒業研究を仕上げることができずに卒業を逃したとしたら、指導教員の先生が「適切な指導だったか」「難しすぎる課題ではなかったか」を問われる立場にある。このとき、私は自分の実力が至らないだけの被害者なのだ。

大人の仕事というのは、大人どうしが協力するときの仕事である。大人の仕事は、子どもの仕事と正反対の性質を持つ。すなわち、仕事を与えられる側に選択権があり、達成する責任がある。大人の仕事の典型は、会社で取り組む仕事である。

つまり、大人である私は、与えられる仕事に取り組むかどうか選択することができる。その代わり、成果が出ないことに対するペナルティは重い。大人に求められるのは課題に対して成果を上げることであり、取り組み状況は評価の対象ではない。私がどんなに真面目に取り組んでも、成果が出なければそれは私の責任である。

選択権があるとはいっても、実質的に私がやることになっている仕事もある。しかし、そうであっても、やると決まったときから、私は期日の延長を求めたり、内容を変更して難易度を下げたり、助けを求めたりして何とか帳尻を合わせる責任を負う。

私が経験した大失敗というのは、まさに、大人の仕事に子どもの仕事の方法で挑んだがゆえの失敗だった。

学生時代の経験から演繹すれば、仕事を断らないことは自然なことだったし、それが難しすぎて失敗した時には、難しい課題を課した方にも責任があった。社会に出てからも、新人は仕事を断らず、なんでも進んでやることを良しとする風潮があったし、私の力量にあわせて仕事を振る責任が上司にはあった。

新人時代は終わり、私にも大人の仕事が回ってきた。私は、仕事を受けた以上は何とかして帳尻を合わせる責任があることに、まだ気づいていなかった。それから、成果が出ないことが確定して、初めて、私がすべての不利益を被る立場であることに気づいたのである。「失敗したけれど、途中まではできた。真面目に頑張った。だから悪くない」というロジックは全く通用しなかった。

私は軟着陸に失敗したので、仕事で大変なことになったりした。今でも、子どもの仕事で身につけたふるまいが顔を出すこともあるし、その度に苦労している。

2月6日の日記

幾何学的な変換なのだが、うまく抽象的な処理に落とし込めなくて、やむなく全パターンを列挙する実装にした。とりあえず今使っているデータでは上手く動いたけど、汎用性があるかは全く自信がない。

2月5日の日記

現実に関するほとんど全ての問題は、程度問題である。何らかのルールに規定されない限り、絶対にやってはならないことや、絶対にすべきことはそうあるものではない。

逆に言えば、私が絶対にすべきではないとか絶対にするべきだといった0か1かの思考を持つとき、そこには何らかの信念がある。例えば、私はタバコを吸わないけれど、タバコが健康に悪影響を与えることは事実でも、それはせいぜい習慣的に吸うと死亡リスクが高まる程度のものである。私が「1本だって吸うもんか」と考えるならば、その考えは損得勘定を超えた信念なのだ。

絶対にすべきでないとか、絶対にするべきだと考えるとき、その良し悪しは別にしても、私は現実の損得以上の基準で判断していることには自覚的でありたいと思う。

2月4日の日記

やりたいことや、やるべきことは、周りの人にこまめに発信した方が良く、少数の重要なことだけを言うのはよくない。

というのも、普段は黙っている人が珍しく自分のやりたいことを口にしたら、聞いた人もきっと大事なことなのだろうと考え、配慮してしまうものだ。それがよくない。「言えば万障繰り合わせて配慮してもらえる」というのは、配慮される方もストレスを感じるものである。

都合が合えば協力してもらえるくらいが楽なのだとすると、やりたいことはいっぱいあって全てを満たすことなどできないという当然のことも含めて、全体感を発信すべきだろうと思う。

2月3日の日記

会社の有給休暇は、20日とか結構な日数が与えられるようになっていて、今の僕には多すぎて完全消化が難しい。

けれども、月1回、平日に休みを取ると年12回。真面目に数え始めると結構な日数が必要なのだと気づく。僕が病気で通院することになったとして、月1回なら有給で賄えるけれど、2週に1回の通院だったら少し足りない。20日くらいの休みが必要になる事態は、案外近くにあるのかもしれない。

そのくらいのお休みは会社側も想定しておきなさい、というのは妥当な設計かもしれないなぁという感想。

2月1日の日記

気が付いたら1月が終わってしまったのですが、本年もよろしくお願いいたします。

今年はアウトプットの頻度を増やしたく、ここの運用も当初よりも気軽に何かをつぶやく場にしようかと思います。文体や言葉の選び方も少しラフになる見込み。