Lambda

2024年の日記

5月4日の日記

某3DCGソフトで有名なメタセコイア。ようやっと実物を見ることができた。日本にも各地に存在するらしいけれど、縁がなくて見たことがなかったの。背が高く、樹形も色も綺麗な美しい木。

メタセコイア

4月30日の日記

高精度化された拡張手法より、シンプルで古典的な手法の方が実測と合う計算結果が出てちょっと困っている。現時点では古典手法で十分でも、このあと調べたい現象は拡張手法じゃないと表現できないので。

4月28日の日記

演じることの効能は大きく2つある。

一つは、日常の所作に正解が与えられることで、ふるまいに自信がつく。これは、自分の所作に「あの人の真似である」とか「本で読んだ」といった具体的な参照点ができて、自己流ではなくなるためである。人は、自己流を人様の前で披露するという状況にストレスを感じるものなので、自己流の所作は少ない方が楽である。

もう一つは、演じる元となったお手本も完璧ではないと理解できることである。何かを真似るために観察するようになると、その手段の全く非効率な面を発見したり、その人が答えに窮する指摘を受ける場面を目撃するようになる。このような場面は、真似をするつもりで深く観察をしないと気が付かないものである。お手本の完璧ではない面を知ることは「お手本通りでなければ失敗だ」のような、誤った理解を正してくれる。また自身が全く非効率な対処を強いられたり、答えに窮する指摘を受けた時の、少なくとも、心の準備ができるようになるだろう。

4月27日の日記

それを知る前の自分に、演じているという説明をしても、つまり虚勢を張るとか、社会的な正しさに従うという意味ですね、など否定的な印象を持つだろうと思う。

けれども、実際には、それは自由を後押しする効果がある。日常にお手本を取り込むことを通じて、意識的にできる所作が増える効果は大きい。ここは上手く言語化できないのだけれど。

4月25日の日記

自分のキャラクターを意識して、それを意識的に演じることの効能を整理して文章化したいのだけれど、できずにいる。

私は、意識的に自分にキャラクターを付与して、演じるようになったのが大学生も終盤になってからなので、それをする前とした後の景色の違いを明確に経験することができた。自発的に演じることによって初めて自由意思によって社会的役割を担うことができるようになったという感覚がある。

4月24日の日記

星空観賞用のめがねを作る夢を見た。夢の中では無限遠の物体を見るのに適した度数とか、桿体細胞に対応した帯域の透過率が高いレンズとかを選んでいたのだがけれど、そんなめがねは現実にあり得るものなのかしら?

4月23日の日記

画像の読み込みが途中で止まるアクシデントがあって、写真をコサイン基底で近似していることがよくわかる絵を見てしまった。

1枚目のが読み込みが途中で止まった絵。2枚目が最後まで読み込んだ絵。途中で止まった方は遠目に見ると元の写真の粗い近似だが、その1個のタイルを見ると1次のコサイン関数になっている。

1枚目 読み込みが途中で止まった絵
2枚目 最後まで読み込んだ絵

元ポストはこれ→@jresio_PR 2024-04-16

4月21日の日記

ネットワークスペシャリスト試験でした。勘違いをして変な回答をしている可能性はあるけれど、手ごたえはまずまず。𝕏で感想を眺めても今年は難易度低めだった模様。アドレス空間とかルーティングの設計が重そうな問題を避けるようにしていたら、セキュリティ系の問題を渡って最後まで行けるルートがあったため、答えやすかった。

本日の山場は午前IIでPCI Expressの3.0と4.0を5.0の共通点について聞かれて「知るかそんなもん!」って鉛筆を投げそうになったところ。ネットワークエンジニアたるもの使用しているNICのPCIのバージョンに無知であってはならぬというお考えの方が問題を作っていらっしゃる?

4月18日の日記

技術的なことに関するセンスがなく、しばしば問題解決にならないアイディアを口にするのだけれど、その問題と(不完全な)解決のアイディアを持ってしかるべき人に相談に行くという動きが完璧にできるので、広い意味で問題解決能力があるという評判を得て偉くなった人がいる。

20年以上若い自分が聞いても「何言ってんの?」みたいな話を持ってくるんだけど、「そのアイディアはこういう理由でダメ。セオリーはこう」ってアドバイスを返すとそのまま解決してしまうので強い。

こういう人は権力を得れば得るほど「なるほど、そう考えるのね。ちょっと検討書にまとめてくれる?」とか言って他人を使えるようになるので、年々問題解決能力が伸びているように見える。

4月16日の日記

為替相場が上がったとか下がったとかの感想を市民に聞いて、海外旅行に行きやすくなるとかのコメントを引き出すやつがどうにも納得いかない。為替相場が数%動いて旅行代金が変わったって、気にしたりしないでしょ。

これが海外との取引で商売をするという文脈になると、為替相場は利益率の変動要因となり、シビアな問題を起こす。数%の変動が利益をごっそり持っていくのなら、ただごとではない。

けれども、ビジネスにおける為替相場を論じても大多数は自分のことだと思ってくれない。そこで、為替相場を身近に感じてもらうために知恵を絞った結果、海外旅行の話が出てくるのだろう。

だが知恵を絞ったにしては結果が微妙だ。やっぱり真面目にビジネスに与える影響を論じた方が良いのではという気もする。

4月15日の日記

この前珍しく子供が長めに夜泣きしたから、なんかアップデートがあるんか?と思ったら、翌日いきなり初めて空になった皿を指して「無い〜」、お茶の入ったコップを指して「有った〜」と言い出したので、どうやら有と無の概念を獲得して言語化できるようになったっぽい。

「普段と違う夜泣き=アップデート」は育児界隈でよく見る話で私が言ったわけではないです。引リプを見させてもらったら発熱後にアップデートするのもあるあるらしいですが、今日の娘はコロナ回復中で爆裂にアップデートしてます。育児おもしれ〜

𝕏 @tako_0 4月6日

読んでいたらうちの子にも心当たりがあった。夜中に突然泣き出した翌日から、以前の倍くらいの長文を話し始めたことが。あれは、脳の配線が突然修正された違和感で泣いてるのん?

4月14日の日記

思想って難しいなぁとぼんやり考えていた。

インターネットの争いを見ていると、ベースとして自由主義の論理を用いながら、自分の都合の良いところだけは保守主義の価値を採用するような、自分に都合がよいだけの論理をしばしば見る。

当然、そんな論理は隙だらけで、理解も共感もしようがない。自由主義なら自由主義で一貫した話を持ってきてもらわないと困るのだ。けれども、突き詰めて極左ならがよいのかと問われるとそれも違う。極右とか極左ではなくて、中道がよい。

自由主義思想に保守主義を混ぜた冒頭の話がまずかったのは、自分の都合でいいとこどりをしたからだというのが一応の回答である。だが、真に客観的な基準で左右の思想をミックスできるものだろうか。

できないからもめるのだろうな。自分の知識ではついていけない話も多々あれど、簡単ではないのは傍から見てもわかる。

4月12日の日記

上空から佐田岬半島を見た。実物を見ると「本当に地図の通りの形なんだ」という気持ちが湧いてくる印象的な光景。

4月10日の日記

航空券を予約すると、前日にオンラインチェックインをしろという連絡が来るからやるのだけれど、何の手続きなのか実はよくわかっていない。

チェックインしたからといって、キャンセルできなくなったり、着席が確約されたりするわけではないようだ。従来のように、空港に着いてからチェックインするのなら、搭乗の意思をもって空港に到着している事実を確認できるだろう。

前日にオンラインで行うチェックインも何かの確認であろうか。これでは、前日までは生きていた事実くらいしか確認できないと思うのだが。もちろん、予約したのが何か月も前だと、そのまま連絡がつかなくなる人が少なくない割合で出るだろうから、実際に生存確認をしたいのかもしれない。

問題は、これは全て私の想像であって、そういうつもりで対応してよいものなのか確信が持てないということである。

4月9日の日記

心電図取ったら通常より大きな電位差が出ているらしい。お医者さま曰く、脂肪や骨の層が薄く、心臓が電極に近いと電位が大きく出るだけで病気ではないとのこと。理屈はわかるけど考えたこともなかったな。

4月7日の日記

私がATMで1万円とか2万円単位でお金を引き出すのは、千円札をたくさんほしいからです。一万円札は日常生活では使いにくすぎる。全部千円札で吐き出してくれるなら、10万円くらいまとめて引き出したって構わないから、ATM氏には千円札をもっと出していただきたい。

4月6日の日記

TLSの仕組みを掘り下げられるとなんもわからん。電子証明書のフィールド名とかまで知っておく必要あるのか。

4月5日の日記

今日のまなび。IPsec-VPNとSSL-VPN。

VPNの構成方法。どちらもTLSを用いて通信を暗号化する。IPsec-VPNはネットワーク層のプロトコルであり、IPそのものを暗号化するという発想。一方で、SSL-VPNはセッション層のプロトコルであり、ブラウザを経由して暗号化通信をするという発想。ただし、SSL-VPNには専用のソフトウェアを使って仮想NICをつくり、IPパケットを直接送受信する技があるので、Webアプリケーション専用というわけではない。

4月4日の日記

今日のまなび。DNSについて。

DNSにAレコードを複数書くと、ラウンドロビンによって接続先のが振り分けられる。例えば、アドレス1とアドレス2という2つのAレコードを書くと、2つのアドレスに均等に通信を振り分ける。

さらに、Aレコードは重複するレコードがあってもよい。例えば、アドレス1、アドレス1、アドレス2という3つのAレコードを書くと、アドレス1とアドレス2に2:1の割合で通信を振り分ける。

4月3日の日記

個別の事象は成功や失敗が偶然に左右されることが多々あるので、1度や2度の挑戦で何かを判断しようとすると結果が安定しないものです。長期的に考えるなら試行回数を増やすことが大事。前提として(1) 期待値がプラスである、(2) 失敗しても再挑戦のチャンスがある、限りは試行回数は多い方が良い。

簡単に言えば、1回ダメなら諦めるつもりでやるよりも、成功するまで何度でもやるつもりでいる方が長期的には強い。

ぼんやりと「子どもには試行回数の価値を教えたいなぁ」って考えていたのだけれど、その時の自分はちょうど試みが理不尽な結果に終わって「こんなこと二度ととするものか」っていじけていたところだったんだよね。そのとき、こういういじけ方をするなという戒めじゃないかと気が付いてしまって、自分の悩みが可笑しく思えてしまったの。

4月2日の日記

体調がようやっと戻ってきた。相変わらず胸は痛い。

今日は良いことが二つ。一つは、自分の将来のあるべき姿を確認したこと。もう一つは、自分が過去に下した決定を肯定できたこと。

4月1日の日記

本日もストレス反応で体調が地を這う。胸の痛み、痺れに似た倦怠感、胃のあたりの不快感。取り付く島もなく、要相談な感。

3月31日の日記

土日は休めておらず、しんどみ。抑うつ、頭痛、胸の痛み。

3月28日の日記

一昨日話した、主観的な参照点を持たない人は、私から見ると言葉の意味がコロコロ変わる「気分屋」に見える。

言葉に参照点があると「(普段なら5分待たされるくらいは遅いとは言わないんだけど、今日の私は急いでいるから)遅いなぁ」みたいな評価が心の中で常時行われるのに比べると、遅いと感じたという感覚をダイレクトに「遅いなぁ」と言うのでは表現の粗っぽさとか、自制心の効き具合が違ってくるのだと思う。

3月26日の日記

自分以外の人の言葉の使い方をみていて、自分がその言葉をどういう意味で用いるかという主観的な参照点を持っていない人がいるのではないか?と思ったりした。

これは形容詞なんかで特に重要なのだけれど、例えば、「暑い」という言葉を使うときには「私は30℃以上の気温を暑いと表現します」みたいに言葉と対応する具体的な状況(参照点)が私にはある。もちろん、明確に言葉として30℃と定義して使っているわけではないけれど、言葉から想起される一定した具体的な状況がある。

もちろん、私が暑いと感じる主観的な感覚は、気温以外の影響を受けている。そのような場合でも「(私の目安である30℃から比べると気温は低いのだけれど、今日の私は厚着なので)暑いですね」みたいに内部で参照点からの距離を意識して喋っている。

私にとっては言葉には参照点があるのが自然なことなので、誰かと対話をするときには、相手の言葉にも当然それがあると考えている。このとき参照点は人それぞれなので、25℃を超えたら暑いだろうという人もいるかもしれない。けれども25℃に参照点を持つ人は、いつも25℃以上を暑いと表現するという、恒常性を期待している。

相手が「暑いなぁ」と言うとき、私はしばしば「(あなたの参照点から見ればまだ暑いほどの気温じゃないですよね。もしかして)いつもより厚着ですか?」みたいな返し方をするのだけれど、相手によってはこの返しはかみ合わない。そんなときに、この人にとっては「暑い」という言葉に「私が暑いと感じた」以上の意味はないのではないか、と考えたのが冒頭の思い付きである。

「私が暑いと感じた」以上の意味はないとしたら、そこに理由を付けられたり、普段との違いに着目されるのは、まるで自分の感覚が疑われているような感じがするのかもしれない。

3月24日の日記

何らかの問題に対処するときには、原則として文献をあたって解決するべきである。言い換えると、自力の試行錯誤はできるだけやりたくない。だが実際には、自分で手を動かして問題そのものを理解しないと、文献の情報を利用できない場合が多いから、結局は試行錯誤が必要である。

そう考えると、試行錯誤というのは問題を解決するためではなく、問題を理解するために行うべきものと思えてくる。試行錯誤をするときには「どの程度問題の解決に近づいたか」よりも「どの程度問題を理解できたか」を自問するのがよいかもしれない。

3月23日の日記

ウィスキーの余市を探しているのだが、売ってないなぁ。定価の倍くらいで売っているところは見つけたのだけれど、プレミアム価格を付ける店と取引した経験がないのでちょっと様子見。きちんと品質管理された商品を商っているところと、管理せずに商品を横流しする業者との見分け方がわからないので。

品薄とはいえコンスタントに供給はある商品のようなので、普通の小売店でもう少し探してみる。

3月20日の日記

休日だけれど今日はお仕事。実験で取得したデータを分析していた。これが結構な量のデータで、グラフにプロットするにも5分とか10分待たされる。実質的な作業の密度は高くないのだが、拘束時間は非常に長い。

誰がやっても時間がかかることに違いはなく、時間かけてプロットして吟味しましたというだけでも十分価値は出る。というわけで、時間をかけるべき仕事だと割り切ってお茶をすすりながらやる。

3月19日の日記

時間を区切って時間内で出せる最善の成果を出そうとするのは良いことで、実際に非常に良い出力が出る。だが、自分のすることに確信が持てるまで考えた場合と比べると、充実感はいま一つである。

3月17日の日記

タスク管理があまりに苦手なので、まず、タスクをいくつかに分類してみることにした。勝手に考えるより何らかのフレームワークを参考にした方が良い気もするがとりあえず。

まずタスクは、受動タスクと能動タスクに分けられそうである。受動タスクとは、タスクが完了した状態について関係者間で共通認識があるタスクである。例えば、書類をルールに則って処理するタスクがそうである。求められる品質が定まっている、その仕事にどれだけ労力をかけるべきかは本人の意思とは関係なく受動的に決まることから、受動タスクと呼ぶことにした。

一方で、能動タスクとは、スクが完了した状態についての共通認識がなく、完了するには関係者を納得させる必要がある仕事である。例えば、調査を行ってそれに基づく提案を行うタスクがそうである。求められる品質が定まっておらず、その仕事にどれだけ労力をかけるべきかを本人が能動的に決める必要があることから、受動タスクと呼ぶことにした。

自分に対する客観的評価なり、業績なりがどちらのタスクから生まれるのかによってタスク管理の戦略はかなり異なる。受動タスクを抜けもれなく確実に実行することで評価される人にとって、能動タスクはあくまでも加点要素である。一方で、能動タスクの質で評価される人にとって、受動タスクはどちらかと言うと減点要素である。

私は明らかに能動タスクで評価される仕事についているので、基本的には能動タスクにかける時間を最大化しなければならない。だが、書類を出さないとかルールを間違えると受動タスクでミスをすると評価の足を引っ張るので、ミスをしない範囲で受動タスクに時間をかけないのが正解である。

3月16日の日記

仕事がひと段落して、久しぶりに仕事のことを考えないでいられる週末を迎えたところで、家族からも1日暇をもらうこととなった。こんなに自分のことだけを考えられる時間は久しぶりで、とてもありがたい。

3月14日の日記

JRは近年、みどりの窓口を廃止してキャッシュレス化や切符のオンライン販売に力を入れている。だが、窓口でしか買えない切符があったり、そもそも複数枚にわたる切符を一人で計画できる客が少なかったりして、少ない窓口は混雑しているようだ。

これは、DXでよくある「紙ベースの既存フローにあうデジタルシステムをつくるのではなく、デジタルシステムで処理しやすいように既存フローを作り替えろ」案件に見える。具体的にどうすればよいかについて、あまり思慮の浅いことは言えない。中の人も当然検討したうえで、落としどころを見つからないくらいには複雑な問題であることは想像に難くない。

3月13日の日記

いろいろ残ってはいるが、山は超えた感。

3月9日の日記

学会大会の連番の口頭発表で、その1、その2のタイトルの書式が微妙に違うやつ。見ていて落ち着かないので避けてほしい。「その1」(1は全角)、「その2」(2は半角)とか。

3月7日の日記

高い日本酒は雑味が少なく、角が取れた味がするのがようやっとわかった。好き嫌いとは別の、なんか高そうという感触を理解したぞ。

同じ酒蔵の安い酒と高い酒を並べても味が似てるから却ってわからないこともある。今回のは味が好きなのは安い方だが、雑味がないのは高い方というコントラストがわかりやすいパターンだった。

3月6日の日記

とても久しぶりに母校に顔を出す。先生や同窓生とのご縁があると心強いなぁという感想。

2月29日の日記

他の人が作成した原稿の体裁を整える仕事って大変なんだよね。

文章の意味を変えない体裁の修正は、簡単で誰でもできる作業と思われることが多く、評価の対象になりにくい。そのわりに、修正時に誤って意味を変えてしまったり、原稿作成者の意図と違う修正を入れてしまうと、あとで問題になる。

加点要素が少なく減点要素が多い仕事は、作業者の心理的負担が大きい。

2月28日の日記

仕事ができるという意味で頭のいい人は、few-shotから学ぶ学習能力がやたらと高い。誰かがやっているのを2、3例見ただけで塩梅をつかんで、やりすぎとか、やらなすぎを殆ど出さずに仕事をこなす。

人当たりが良い、悪い、真面目、不真面目など性格は様々だけれど、とにかく人がやっているのをみていつの間にか学んでいる。あの学習はどうやるんだろね。

2月27日の日記

ある物事について、具体的な目標を定めるにはどうすればよいだろうか。私は何がしたいのか?という問いに答えるのは簡単ではない。

例えば、プログラミングの初心者に「どのようなプログラムを書きたいか?」と問うても、業務を支援するシステムを作りたいとか言うばかりで、具体的な仕様を説明できる初心者はまずいない。

一方で、一定以上の技能を持つ経験者は、解決したい問題から、入力と出力と大まかなロジックを頭に思い浮かべることができる。細部の設計をすれば、様々な問題が出てくるのだが、逆に言えば問題点を指摘できる程度には具体的なイメージがある。初心者の発想は地に足がついておらず、経験者の発想は地に足がついていのだ。

私たちが、新たな分野で地に足が付いた発想ができるようになるにはどうすればよいのだろうか。地に足の着いた発想ができないというのは、そもそも解決したい課題を特定できないという意味で、解決手段を知らないことよりもずっと深刻である。問題の解き方がわからないよりも、問題文が何を聞いているのかわからない状態に近い。

私にはいま「文章が書けない」という悩みがあるのだけれど、直面しているのはまさにこの問題なのだ。というのも、ほとんどの文章術は次のように教えるからだ。まず主張したいことがあって、それを補強する根拠を整理する…。なるほど言っていることはわかる。私にとって問題なのは「主張したいこと」とは何なのか?ということだ。

何を主張したいですか?という問いに対する答えが見えず、だから文章全体が宙に浮く。誰かの助言を受けようにも、言いたいことが定かでない文章に助言をするのは難しい。

言いたいことがないのなら、何も言う必要はないのか。違う。誰にだって言いたいことや言うべきことはたくさんある。ただそれをすくい上げられないだけなのだ。具体的に書きたいプログラムが思いつけなくても、プログラムで解決すべき問題を抱えている場合があるのと同じだ。

だからこそ、私の言いたいことをすくい上げられるようになりたいのだけれど、さて具体的な言いたいことを特定するために、私は何を訓練すればよいというのだろうか。

2月25日の日記

今日中には完成しないものを、時間で区切って終了すること。そして、後日きちんと再開することは重要。訓練して、できるようにせねばならない。

2月24日の日記

会社の施設にはIDカードや鍵を持っていないと出入りできない扉がたくさんある。部屋に人が閉じ込められないように、扉は原則として部屋を出る方向へは鍵を要求しないように設計されている…はずなんだけど本当か?と不安になることがある。

だって普通の建築は、デバッガーが壁に体当たりしたり、正規で想定していない経路で動き回ってスタックしないかとかチェックしてないじゃん?私はしばしば鍵をどこかに置き忘れるので、何かの間違いで閉じ込められることがないか心配なんだよ。

2月23日の日記

散髪に出かけたら、普段は芸能人の話ばかりしている床屋が日経平均がどうのとかNISAがどうのという話をしている。世間に楽観的な空気が漂っているのを感じるね。

これで直後に暴落などすれば、ウォール街の靴磨きの少年みたいな話になるのかもしれない。

2月21日の日記

仕様なのかわからないけれど、Windows 11ってクリックしたのにクリックされていない挙動が多くないですか?

最近のOfficeでは、アクティブでないウィンドウをクリックしたときは、そのウィンドウをアクティブに切り替える動作だけを行い、ウィンドウ内にクリックイベントを送らない動作をしますが、それに近い感触。特定の条件下で、クリックイベントが発生しないことがある。

2月19日の日記

今日も、最も守られるべき人を守ることができなかったことに、無念で心がいっぱいである。私が責任を負うべきことである。謝っても謝りきれない。

2月18日の日記

頭痛がしてもうダメな感じ。

2月17日の日記

他人への期待は、合理的に期待できる範囲に留めることが望ましい。そのうえで、合理的に期待できる範囲を広げる努力を怠ってはならない。

2月16日の日記

SCSIというと、初めて買ったCD-RドライブがSCSI接続だったのを思い出す。すっかり途絶えた技術かと思いきや、iSCSIとかFCoEとかで現役で使われてる規格なの!?というのが今日の学び。

2月15日の日記

父は自分の仕事についてあまり話さない人だった。僕は父の仕事がもっと知りたかった。僕の幼少期に、お父さんの仕事について質問したり、専門的なことを教えてもらったりする体験がなかったことは、今でも残念に思っている。

だから、子供にはめいっぱい仕事について話してあげようと思ったが、いざその立場になるとどう話を切出せばいいのかわからない。専門的な話を楽しく話すのは簡単ではなくて、意識的にやらないとできないんだとようやく気付いたよ。だってさ、地盤工学の……楽しい……話???

2月14日の日記

素朴な自由主義は魅力的な教えのようには思える。自立した個人が、自由意思に基づいて行動する。自由主義は、私たちに、やりたいと思うことやればいいし、やりたくないと思うことをやる必要はないと教えてくれる。

一つ気にしなければならないのは、その自立した個人というのは、自分と同じ程度の教養を持ち、自分と同じ程度に健康で、自分と同じ感覚を共有できるような、ひどく限定された相手ではないかということだ。そんな人たちと、対話によって利害を調整するのは素晴らしい体験だろう。私も含めて、自由主義のすばらしさを感じるときというのは、そのような素朴な意味における「自立した個人」に囲まれているときである。

問題はなのは、私たちがそのような意味における「自立した個人」でいるのは普通にあることではないし、私たちは自分が感じるよりもずっと自由ではないということである。

2月12日の日記

私が昔いたネットゲームの中では、適用/適応、累積/蓄積のような同音異義語ではないが語感が似た単語の誤用が著しく多かった。あれは当時(2000年代)のインターネットのなかでも特異な空間だったように思う。

インターネット普及期にネットゲームに流入した人のいくらかは、日常生活では会話が中心で、文字によるコミュニケーションにそもそも不慣れな人たちだったのかもしれない。それに比べると、個人のホームページや掲示板に出入りした人たちは、日常的に文字を読む人が多かったのではないか。

2月9日の日記

ちょっと言語化が上手くいっていないが、ぼんやりと考えたこと。

商品を自分用にカスタマイズしてもらえるサービスを利用するときには、利用者の側にも要望を的確に伝える言語力が求められる。

現在のところ、個別のカスタマイズは一部の高価格帯のサービスが中心で、普及価格帯のサービスとは上手くすみ分けているように見える。普及価格帯では複数の選択肢の中から自分に合ったものを選ぶ方式が主流で、私も選択方式の方が馴染みがある。選択方式は見た目の印象や使用感といった非言語の情報に基づいて商品選びができるため、要望を言語化する必要があまりないのが特徴だ。

将来は、AI言語モデルがこのすみ分けを変化させるかもしれない。AIが御用聞きとなって、高価格帯にしかなかった個別カスタマイズが普及価格帯にも広がってくるのである。そう遠くない将来は、「商品を選ぶセンス」よりも「要望を的確に伝えられる言語力」が求められる時代なのかもしれない。

2月8日の日記

私は仕事で大失敗をしたことがあって、その原因を「私は子どもの仕事をしていた」という言葉で理解している。

仕事には、子どもの仕事と大人の仕事がある。

子どもの仕事というのは、大人が子どもに課すような仕事である。子どもの仕事は、仕事を与えられる側に選択権がなく、達成する責任もないという特徴がある。子どもの仕事の典型は、学校の課題である。

つまり、学生である私には、与えられた課題をこなす以外の選択肢はない。その代わり、その課題を完了できなかったことに対するペナルティは軽い。子どもに求められているのは課題の解決に向けて努力することであり、取り組んだ時点で一定の責任を果たしたとみなされる。私が真面目に取り組んだのに成果を出せず、そのせいで不利益を被るならば、そんな課題を出す方が悪い。

例えば、私が真面目に取り組んだにも関わらず、卒業研究を仕上げることができずに卒業を逃したとしたら、指導教員の先生が「適切な指導だったか」「難しすぎる課題ではなかったか」を問われる立場にある。このとき、私は自分の実力が至らないだけの被害者なのだ。

大人の仕事というのは、大人どうしが協力するときの仕事である。大人の仕事は、子どもの仕事と正反対の性質を持つ。すなわち、仕事を与えられる側に選択権があり、達成する責任がある。大人の仕事の典型は、会社で取り組む仕事である。

つまり、大人である私は、与えられる仕事に取り組むかどうか選択することができる。その代わり、成果が出ないことに対するペナルティは重い。大人に求められるのは課題に対して成果を上げることであり、取り組み状況は評価の対象ではない。私がどんなに真面目に取り組んでも、成果が出なければそれは私の責任である。

選択権があるとはいっても、実質的に私がやることになっている仕事もある。しかし、そうであっても、やると決まったときから、私は期日の延長を求めたり、内容を変更して難易度を下げたり、助けを求めたりして何とか帳尻を合わせる責任を負う。

私が経験した大失敗というのは、まさに、大人の仕事に子どもの仕事の方法で挑んだがゆえの失敗だった。

学生時代の経験から演繹すれば、仕事を断らないことは自然なことだったし、それが難しすぎて失敗した時には、難しい課題を課した方にも責任があった。社会に出てからも、新人は仕事を断らず、なんでも進んでやることを良しとする風潮があったし、私の力量にあわせて仕事を振る責任が上司にはあった。

新人時代は終わり、私にも大人の仕事が回ってきた。私は、仕事を受けた以上は何とかして帳尻を合わせる責任があることに、まだ気づいていなかった。それから、成果が出ないことが確定して、初めて、私がすべての不利益を被る立場であることに気づいたのである。「失敗したけれど、途中まではできた。真面目に頑張った。だから悪くない」というロジックは全く通用しなかった。

私は軟着陸に失敗したので、仕事で大変なことになったりした。今でも、子どもの仕事で身につけたふるまいが顔を出すこともあるし、その度に苦労している。

2月6日の日記

幾何学的な変換なのだが、うまく抽象的な処理に落とし込めなくて、やむなく全パターンを列挙する実装にした。とりあえず今使っているデータでは上手く動いたけど、汎用性があるかは全く自信がない。

2月5日の日記

現実に関するほとんど全ての問題は、程度問題である。何らかのルールに規定されない限り、絶対にやってはならないことや、絶対にすべきことはそうあるものではない。

逆に言えば、私が絶対にすべきではないとか絶対にするべきだといった0か1かの思考を持つとき、そこには何らかの信念がある。例えば、私はタバコを吸わないけれど、タバコが健康に悪影響を与えることは事実でも、それはせいぜい習慣的に吸うと死亡リスクが高まる程度のものである。私が「1本だって吸うもんか」と考えるならば、その考えは損得勘定を超えた信念なのだ。

絶対にすべきでないとか、絶対にするべきだと考えるとき、その良し悪しは別にしても、私は現実の損得以上の基準で判断していることには自覚的でありたいと思う。

2月4日の日記

やりたいことや、やるべきことは、周りの人にこまめに発信した方が良く、少数の重要なことだけを言うのはよくない。

というのも、普段は黙っている人が珍しく自分のやりたいことを口にしたら、聞いた人もきっと大事なことなのだろうと考え、配慮してしまうものだ。それがよくない。「言えば万障繰り合わせて配慮してもらえる」というのは、配慮される方もストレスを感じるものである。

都合が合えば協力してもらえるくらいが楽なのだとすると、やりたいことはいっぱいあって全てを満たすことなどできないという当然のことも含めて、全体感を発信すべきだろうと思う。

2月3日の日記

会社の有給休暇は、20日とか結構な日数が与えられるようになっていて、今の僕には多すぎて完全消化が難しい。

けれども、月1回、平日に休みを取ると年12回。真面目に数え始めると結構な日数が必要なのだと気づく。僕が病気で通院することになったとして、月1回なら有給で賄えるけれど、2週に1回の通院だったら少し足りない。20日くらいの休みが必要になる事態は、案外近くにあるのかもしれない。

そのくらいのお休みは会社側も想定しておきなさい、というのは妥当な設計かもしれないなぁという感想。

2月1日の日記

気が付いたら1月が終わってしまったのですが、本年もよろしくお願いいたします。

今年はアウトプットの頻度を増やしたく、ここの運用も当初よりも気軽に何かをつぶやく場にしようかと思います。文体や言葉の選び方も少しラフになる見込み。