この数ヶ月くらいずっと「人とコミュニケーションが得意な人」の事を眺めているのだけれど、もう根本が違うもんな。いくつかの会話や質問の"技術"は把握できたよ。なるほどなと得心した。同時に根本的に違うと思ったんですよ。
この人は、周りの人間に、強い興味がある
病気の豚
これは本質。何かを習得するというのは、対象に興味を持つというこである。
何かに長けていれば、それに関連するニュースや噂話にも詳しくならざるを得ないのだ。将棋を学べば、新聞の端の詰将棋やプロの棋譜に気が付くようになり、建築を学べば街に建っている建物の意匠や構造の特徴に気が付くようになるものである。ここでは、気が付くということが重要だ。新聞の端の小さな記事を読んだり、街中の建物を眺めるために足を止めること自体は大した労力ではないが、読んだり足を止めたりする場所を目を凝らして探そうとすれば大事である。日常の目に入ることすべてについて、意識的にアンテナを張り続けるなど、常人にできることではなく、普通、そのようなことはしない。
趣味でも仕事でも、何か自分にとって当たり前にできることについて考えてみてほしい。日常生活のなかでそれに関連する情報には気が付くし、そのために特別注意を向けているということはないだろう。
ところで、元のポストの主は、その興味(アンテナを張った状態)を天賦の才と考えているようだが本当にそうだろうか。私はそうは思わない。むしろ、何かを習得するというのは、対象に興味を持つことを含むと、私は考える。私には、何らかの知識を得て体系的に理解することで、日常生活でもその具体例を見つけられるようになったという経験があるし、これを読んでいる皆様も経験があるのではないかと思う。つまり、何かを習得するというのは必然的にそういう経験を含んでいるのではないか。
元ポストで触れられている対人スキルも例外ではない。現状を、体系的な知識に基づいて理解することで、初めて相手の機微な動きに気が付くことができるのである。気付くことができるのは、興味を持って見ているからに他ならない。
まだそれを習得していない人から見れば、気が付くこと自体が才能であるかのように感じられるかもしれないが、実際にはそうではない。将棋や建築の才能なるものが、その業界のトップを目指す人間には必要不可欠ではあるにせよ、アマチュアの対局を楽しんだり、建築業界で働くことが才能で制限されることはない。それなりの数の人々が共通してできることというのは、習得可能であると考えてよかろう。
何かを学ぶということは、自分自身がそれに興味を持つためのトレーニングであり、それを習得した結果として、私たちはそれに興味を持つのである。